BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 東浩紀氏による「ゲーム的リアリズム」講演における備忘録1

 最初にはっきり言っておこう。
 これは講演の中身を正確に再現しようとしたものではないので、それを期待する人には何の価値もない。
 あくまでも、7月12日(金)に朝日カルチャーセンターで行われた講演をベースにしてはいるが、私自身の思考の過程を整理するためにまとめた雑文であり、それ以上のものでも以下でもなく、講演で東浩紀氏が喋ったこととは、在る意味、まったく違うものになっている。

 以下、私が自分自身の問題意識にひっかかったものをキーワード的に羅列することで、衰えゆく自らの記憶力の補完としたい(笑)


  • 「作品が差し戻される環境」

 巷に出回っているライトノベルを読み解こうとすると、既存の自然主義的な『Cultural study』……作品を社会的現実へ還元しようとするような読み方)のようなものは無意味になってしまう。それはライトノベルが、「自然主義的リアリズム(作品があくまでも社会の現実へ差し戻されるような想像力の環境)」によって立っているわけではなく、むしろ、「マンガ・アニメ的リアリズム(キャラクターによるDB消費)」によって立っており、従来のフレームワークでは読解てきなくなってしまっている。つまり、作品が差し戻される想像力の「環境」が決定的に違うからだ。
 ところが既存のフレームワークでは、「ライトノベルは『文学』ではない」というような方向で、『排除』しようとしてきたが、そうではないだろう、というのが氏の大前提。なぜならば、ライトノベルが中学生や高校生に大量消費されていることこそが『現実』だから、だ。だからこそ、我々は「マンガ・アニメ的リアリズム」を直視して、その想像力の「環境」を分析しなければならない、という主張。
 それはその通りであり、そもそも純文学もライトノベルもただの書店の棚の問題に過ぎないわけで、人間が生み出す「コンテンツ」として考えた場合、あくまでも「同質」なものでしかない・

  • 「キャラクターとは作品横断的なものである」

 「キャラが立つとストーリーから逸脱する」という現象。キャラとは、ある「行為の束」で規定されたものであって、その「行為の束」のルールさえ守れば、それはどのような作品の設定においても、そのまま移植してしまうことが可能だ。通常の『文学』的な主人公が、自らが登場する「固有の作品の設定」の中でしか生きられない、その「設定」から切り離してしまうと死んでしまう、つまり登場人物としては意味をもたなくなってしまう、つまりは「単数の現実」を生きているのに対して、キャラクターは「複数の現実」を生きることができる。すなわち、アニメなどの「二次創作」といったものを易々と受け入れてしまう「キャラクター」の強靱さは、「自然主義的リアリズム」が「if」を受け入れない世界であるのに対して、マンガ・アニメ的現実は「if」を前提にした世界なのだと言うことが出来る。
 (以下私見)ここで考えてみたとき、例えば、一連のハードボイルド小説などはどうなのだろうか? レイモンド・チャンドラーが描くフィル・マーロウ、彼はロサンゼルスに生きる私立探偵だが、例えば、彼はエヴァンゲリオンの世界で生きていくことができるのか? エヴァンゲリオンの中で、唯一の男性原理保持者(確か東浩紀がそう述べていた記憶がある)である梶は、ハードボイルド的なキャラクターDBをそっくりそのまま維持してエヴァの世界の中に突入してきていないだろうか? ハードボイルドの諸作品は、考えてみたら、それは「DB消費」的な最初のものなのではないだろうか。ハードボイルドはプログラムピクチャーに成りやすい、ということもキャラクターDB消費の一形態と考えられるのではないか(私見終)。

  • 「コンテンツ志向からコミュニケーション志向への変貌」

 メディアテクノロジーの変貌(ひらたく言ってしまえば、インターネットの出現だ)によって、「発信者→受信者」というツリー状の階層構造メディアから、全ての人が発信者になりえる「コミュニケーション志向」のメディアへと、おきかわっていく過程に、我々はあるのではないか。例えば、ネット上に流れている膨大な言説を読み、場合によっては自分のそこに参加していくということは、それだけでも十分に「文学的」な行為、である。そのようなメディアの変遷にともなって、「作家性」というものの概念は変貌して行かざるを得ない。その変貌の果てにある一つの方法論が、「ゲーム的リアリズム」なのだ、という立て付け、になる。
 そして、「コミュニケーション志向」へとメディアが変貌する中では、「空間」によって規定されていた序列がすべて崩れ、「大きな物語イデオロギー装置)」によって抑圧されていた小文字の『私』(経験性とか本音へとパラフレーズすることができるだろう)の主張が、瞬時に一つの「力」をもって、パブリックな場所へと表出してくることがある。すなわち、イデオロギー装置による抑圧が不可能になっている世界、もしくは不可能になりつつある世界、それが「現代」なのではないか。
 (以下私見)そういうイデオロギー的な抑圧ができなくなっている世界においては、多分「市場」という財の配分システムは残念ながら非常に重要な意味をもってしまうだろう。市場は制限された可能性であるところの「欲望」をさらにいびつな形で流通させる装置、である。だからこそ、今、グローバリズムと平仄を一にして押し寄せてきているのが「市場原理」ということになる。市場原理は、ある意味では道徳よりも強く、宗教よりも寛容で、哲学よりも現実的に「儲ける」ことができる。その「市場原理」の理論的バックボーンとしての近代経済学私見終)。

  • 人間性の問題ではなく、あくまでもメディア・テクノロジーの問題である」

 テクノロジーが人間の行為を変えていく。人間性は変わらないし、人間の生まれついての過剰な想像力は変わらないのだ。

  • 「偶然を必然にするための『物語』の不在」

 そもそも、我々人間が「いまここに在ること」は「偶然」でしかない。その偶然を何らかの「必然」へ変えないと、人間というのは弱いものなので生きていくことが出来ない。ポストモダン的な考え方であれば、この「いまここにあること」の現実を自らの身をもって「甘受」し、そのつらさに耐えなければならない……となるのだが、この「偶然を必然にする」というある種のリープを引き受けてきたのがまさに「近代的主体」だということ。だからこそ、ポストモダン的な立ち位置をとるのであれば、その「近代的主体」を軽やかに(田中康夫的に言うなら「しなやかに」か)すり抜けて、「いまここ」の呪縛に対して、ニーチェ的な嘲笑を浴びせることが数少ない戦略のひとつ、になるわけである。
 まさに「偶然を必然に変えるシステム」としての「物語」「イデオロギー装置」「国家」ということだが、ここ最近でいうと、その「偶然を必然に変えるシステム」が徐々に機能しなくなってきたのが現実、である。
 それというのも、人々の過剰な想像力の流動性は、空間的な序列を飛び越え、ネットを通して繋がり、「いまここに在ること」に対して、解放された過剰な想像力を駆使して、押しつけられたところの「必然」に対して疑問を呈している。リオタール的に言えば「大きな物語の死」ということになる。

 そこでは想像力の流動性が極まって、「何でもあり」の世界になってしまい、「いい加減」で「たまたま」的な世界になってしまう。

  • 「Nationalismの問題」

 そのような「何でもあり」の世界を沈静化させるために、守旧派的には、「物語の復活」を目論むことになる。つまりは「家族」「子供」的な「パパ・ママ・私」といったエディプスの薗へと人々を追いやるのだ。それは「Nationalism」の問題と表裏一体だ。しかし、それは実際の問題としては難しいのではないか。人々は新しい「群れ」のシステムを求めていると考える方が自然だろう。

  • 「必然性(大きな物語)が機能しなくなったときの戦略」

 そこで唯一作家性の生き残りをかけた戦略としての「ゲーム的リアリズム」。



 それはともかく、早口でまくしたてるように喋る東浩紀氏の講演はなかなかチャーミングで面白かった。来週の金曜日に第二回がある予定。
 楽しみである。

 前にも書いたことだが、東浩紀氏は、私にとっては、80年代にフランス哲学をチャート化してきれいに定時してくれた浅田彰氏に近い存在だ。ご本人はいやがるかもしれないが、90年代から2000年代初頭の文化的見取り図という意味では、氏の言説は、私にとっては非常に有り難いものだ。まあ、私も在る意味バブル世代ではあるし笑