BearLog PART2

暇な中年の独り言です

父のこと

 こんなところであまり書くことではないのかもしれないが、少し父のことを書こうと思う。しかも真面目に、だ。この私が真面目に。

 父はちょうど私の30歳年上になるので、今年の9月で83歳になる。5年前に初期の膵臓がんを患い、膵臓を全摘している。膵臓がんがかなり早いステージで見つかったということは本当にラッキーで、それ以降再発もなく、がんという病に関しては特に問題ないと思われる。しかし、問題は別のところにあった。

 高齢者によくある話かもしれないが、父の「頭」の方が問題だった。
 膵臓がんの手術以降、目に見えて短期的な記憶力が落ちていったのだ。手術前から落ちていた可能性は勿論あるわけだが、素人目に見ても明らかに衰えてきたことが分かるくらいに顕著なものになったということだ。それでもしばらくは仕事もないのに、父は仕事場に通っていた。日々、自分の部屋にこもってワープロを叩いていたという。何の文書を作成していたのかは誰も知らない。それこそキューブリックの「シャイニング」のジャック・ニコルソンみたいに「All work and no play makes Jack a dull boy」なんてひたすら打ち続けていたのかもしれないが、真実は誰も知らないし分からない。
 父は所謂きちんとした就職をしたことがなく、裸一貫で簿記の通信教育を始め、簿記会計の専門学校を立ち上げた。起業家と言えば起業家かもしれない。まあそれは今日のこの話の本題ではないから脇においておくとして、学校の校舎のビルがいくつかあるわけだが、そのいくつかは父自らが所有する格好になっていた。少子高齢化は教育業界を文字通り直撃しており、3つある校舎のうち2つは未稼働資産と化していた。このうちの1つの校舎は、事実上母が売買をとりまとめ、無事に売却が完了した。もうひとつの校舎については、母は疲れたと言って私に引導を渡したため、私が売買を仕切ることになった。もはや父親が売買を取り仕切ることができないことだけは明らかだった。
 某JR駅からほど近いところにある物件だったので、買い手としては複数社が勝手に名乗り出てくれていた。中でも某大手商社がいい値段を付けてくれたので、そこに譲渡すべく色々細かいことを私が全権委任されてやっていたわけだ。

 ある日の夕方、普通にオフィスで仕事をしていると、平日には滅多に携帯に電話をかけてこない母から、直々に携帯に電話が入った。
「あんたが仕切っていた物件、お父さんが全然別の業者に売っちゃってたのよ」
 私はしばし言葉を失ったが、状況を確認するべく早めに帰宅して、実家に行った。
 驚いたことに、某商社に譲渡しようとしていた物件の売買契約があった。しかもしっかり父の実印が押されている。父を問い詰めると、「ううん、確かに俺のハンコだがなあ。押したような気もするし、どうかなあ・・・」と何とも心許ない返事しか帰ってこない。値段については、某商社で内諾をもらっている額よりも何千万円か安い、とくる。質の悪い罰ゲームをくらったような気さえした。母も弟も、勿論私も落胆することしきり、であった。とはいえ、契約を締結している以上、仕方ないと言えば仕方ない。ここで安値で別の業者さんに売ってしまうか・・・という方向に家族の世論が傾きつつあったときに、母が鶴の一声、「出るとこでましょう。この不動産屋さんは、前の物件を売ったところなの。お父さんが認知症気味だから私が間に入ったんだけど、お父さんが認知症気味だってことは知っていた筈。そういうずるいことは許せないから、弁護士にお願いして、出るところに出ましょう」
 母は妙に正義感が強く、そのせいで無駄に戦闘的になることがないわけではない。ということで、弁護士さんを雇って、父が締結した不動産売買契約を反故にするべく買主と交渉を開始することになった。
 その折衝の過程については、ここでは全面的に割愛する。それはそれで長い長い話になってしまうからだ。ここではそのプロセスを追っていくことが主眼ではない。
 結局、その売買契約は解除することができた。勿論、多少の違約金をお支払いするこちにはなってしまったが、それはそれで仕方がない。問題はその後だ。

 これで晴れて某商社に物件を売れると思ったが、さにあらず。
 某商社のリーガルから、「認知症の人と売買契約を結ぶことはできない」という、ごく当たり前のことを言われてしまったからだ。
 物件は売らなければならない。しかし、父は契約の当事者にはなれない、ということで、仕方なく私が父の成年後見人になることにした。
 そして売買契約を締結することにした。まあ契約締結に至るまでも色々と紆余曲折はあったのだが、それもここでは割愛する。それがここでの本題ではないからだ。
 父は事実上この日本において、契約の当事者になることができなくなった。仕方ないと言えば、仕方ない。人は老いていく。老いていくことによって、できることができなくなっていく。そして最後には何もできなくなり、無に帰することになる。悲しいことだが、私の父もそのプロセスを辿っている。
 私だって父に遅れること何周かは知らないが、そのプロセスを辿ってはいる。

 この前、膵臓がんの手術以来、ずっと父の面倒を見てきた母が、メニエール病になり動けなくなった。本当に辛かったようだ。生まれて初めて母の弱気な姿を見た。昔、私が子供の頃、小児喘息の発作で苦しんで泣いているときに、「泣くから咳が出るんだ」と烈火のように怒った母が、である。人というのは老いる存在なのだ、ということ当たり前のことを思い知る。そんなこと、ずっと前から分かっていた筈なのに、目の前の現実で初めて自分の皮膚感覚として腹に落ちたのだ。浅はかで未熟な私、である。
 母がメニエール病で倒れた際に、父に近所(私の実家から歩いて15分くらいのところ)にあるサービス付き高齢者向け住宅に入居してもらうことにした。子供としては、父と母が共倒れになることを恐れたのだ。父にとっても母にとってもこれがいいことなのだ、と自分自身を納得させながら、父を施設に送って行った。
 正直言うと、あまり気分のいいものではなかった。
 悪い言葉を羅列するなら、父を(昔の言い方だと)禁治産者にし、その上で隔離した息子、と言うことも可能だ。これが両親のためにいいことなのだ、と本当に胸を張って言えるのだろうか? 私の自問自答は続く。

 施設に入居直後、父が家に帰りたいと言って玄関の前でうろうろしているという連絡もあった。家に帰ろうと施設の玄関をうろうろしている父の姿は、息子の目からしても不憫にもほどがある。言葉を失う。とはいえ、その状況を作るのに加担したのは他ならぬ自分だ。

 そうこうしながらも、時間は過ぎていく。
 私の自問自答は果てしなく続く。

 これでよかったのか。これでいいのか。これからもこれでいいのか。