BearLog PART2

暇な中年の独り言です

堤清二、辻井喬

 実は昔から堤清二は気になる人だった。裕福な家に生まれながらも全学連の活動家として共産主義者になり、そしてまた企業経営者になり、という流転的な人生もそうだけれども、何よりも経営者と作家・詩人という二足の草鞋を履き続けたというアンビバレントな人生というのが私の関心をひくのである。 

 そもそも私の家族は埼玉に住んでおり、買い物で出かけるという際には池袋に出ることが多く、そのため西武百貨店やパルコには非常に馴染みがあって親近感もある、という点も多分に影響しているとも思う。

 関心があったとは言え、彼の著作については不勉強ながら今の今まで一冊も読んだことはなかったのだ。

 ということで、最近出版された下記の本を買ってみたわけである。

 私が物心がついてひとりもしくは友人と買い物に出るとき(要するに八十年代初頭のことだ)、西武百貨店は飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いだった。「文化」というものを売っている雰囲気というかイメージというか幻想をものの見事に振り撒いており、その戦略・戦術に埼玉の田舎者であった私はものの見事にのせられたわけだ。のっただけではなく、多分その掌の上で踊りさえしたのである。「リブロ」に「ウェイブ」等々。今でもあのときのセゾン文化的な部分の蓄積が、私の思考や感情のパターンのかなりの部分を支えているような気さえしてくる。

セゾン 堤清二が見た未来

セゾン 堤清二が見た未来

 

  そのときのことを追想するには、分量といい内容の軽さといいちょうどいいのが本書であった。堤清二の経営戦略の面でも人間的な面でも、はっきり言って深い掘り下げはないのだが、彼のやってきたことを当時の関係者のインタビューを元にして再構成しており、インタビューに対する工数はかなりかけたのだろうなあというのはよく分かるが、インタビューはインタビューにしか過ぎない。インタビューが面白いのは、やはり「暴露」的な部分であり、読者は多分「え、そんなこと知らなかったよ。実際にはそうなってたんだ〜」と言いたいのであるが、本書にはそういうことを期待してはいけない。よい言葉で言えば網羅的だし、わるい言葉で言えば表面的ということになる。

 しかしながら、堤清二が理想家であり理論家であり、そして常に文学者的に自己を客観視する目線を持っていたことを折に触れて語っているところには非常に親近感が湧く。

 自己を客観視することは結局は自らの中に矛盾を認めるということになる。峻烈な自己否定の末に自らの下した結論への確信がゆらぎ、組織の御神体として機能する自分自身の重荷に耐えられなくなってしまったりすることもあろう。ファナティックなノリというか、宗教的な熱狂のようなものが事業推進においては必要な局面というのがないわけではないから、自己を客観視するという習慣は意外と命取りになりかねない。

 その綱渡りが堤清二という人間の本質なのだろう、ということが何となく分かるというのがこの本のよいところである。煎じ詰めれば入門書という感じであろうか。

 

 で、入門書の次に読んでいるのが、こちら。

叙情と闘争 - 辻井喬+堤清二回顧録 (中公文庫)

叙情と闘争 - 辻井喬+堤清二回顧録 (中公文庫)

 

  まだ全部読み切っていないのだが、これは本人が自らの経営者/作家人生を振り返るというもので、政治家や文化人を含めて綺羅星のように当時の巨人達と堤清二/辻井喬のやり取りが語られる。

 個人的には堤清二/辻井喬の文体が自分の体質に合っているようで、意図的な回りくどい表現、ペダンティックなところ等々、鼻につく人もいるのかもしれないけれども、自分としては非常に心地よく読むことができるのだ。

 本書では、先程述べた彼自身の「綱渡り」を彼の視点から追体験できるようなところがある。ペダンティックなところは「綱渡り」故に出てくる意匠なのだとも思えなくもないし、それはそれでご愛嬌かとも思う。

 読み終わったら、最後感想めいたものを書きたいとは思う。