BearLog PART2

暇な中年の独り言です

能楽とバレエについて

 通常の舞台芸術の舞台装置では、ミクロコスモスをできるだけ正確に舞台上に再現することに力点が置かれていることが多い。物語が進行する環境等が、抽象か具象化はともかく観客が何らかの形で認識できるような形で明示されており、そこではマクロコスモスとは関係なく、舞台を観るという行為のみで演劇的世界の構造が観客に明確に理解できる形になっている。

 能楽の舞台は、実はミクロコスモスの表現を最低限に抑える代わりに、「鏡板」「柱」「橋掛」といった舞台装置で、日本的なマクロコスモスが暗示され、そこでは演劇的世界の構造の中にマクロコスモスが侵入してきている。舞台を観るという行為そのものがマクロコスモスを体験することにも繋がっている。ミクロコスモスとマクロコスモスが繋がっているということは、まさにそこは祝祭的、神話的、宗教的な空間を暗示させている。

  バレエにおいては言葉は全てマイムと振り付けに還元され、マイムと舞踏がドラマ進行のエンジンになる。

 よって、観客に対してリアリティを担保しているものはダンサーの一挙手一投足それ自体と音楽、そして舞台美術のみ、ということになろう。ダンサーの一挙手一投足とは基本的にはマイムと踊りであるから、日常的な身体動作からはかけ離れた動きが多い。それ自体がリアリティを担保するかというと、必ずしもそうではない。唯一ダンサーの表情がある種の言語的な表現につながるところがあるが、それすらも完全に言語的というわけではない。

 そう考えていくと、バレエも非常に抽象化された世界の中でドラマを語りついでいくということをしており、ダンサーの所作の観点だけで考えてみれば、能楽師が舞で物語を紡いでいくところと非常によく似ている(謡は言語的なものではあるが、それはマイムと同様に極めて抽象化されており、ストレートプレイなどにおける言語とは全く異なったものだと考えた方がよいとの観点)。

 しかしながら、能楽においては先の述べたように舞台そのものがマクロコスモスとミクロコスモスをつなぐ、ある意味で神話的な空間を設定しているのに対して、バレエではあくまでも物語の前提となるミクロコスモスを想起するための舞台装置に終始している点は大きな差異と言える。

 バレエの舞台装置は、現実やマクロコスモスと物語空間を完全に分離するために機能していると言うことができそうだ。観客を物語空間へと心身ともに移動してもらうための舞台装置。そこでは現実は完全に分離され、ここではない物語空間に観客は投げ込まれる。

 とはいうものの、その特質と矛盾するような不思議な瞬間がバレエにはある。それはソロやパ・ドゥドゥなどが終わった後等で、ダンサーが観客に向かってレベランスするとき。

 それは物語自体でもなく、宗教的、神話的なものでもなく、あくまでも目の前の観客に対する御礼という形をとって現出する。舞台の上で「物語」を成立させるために一度その存在を忘却していた筈の観客に対して、ダンサーは忘却の淵から観客を眼前に連れ戻し、姿勢を一転させて今度は逆に濃密なコミュニケーションをとろうとする。

 パ・ドゥ・ドゥやソロが終わった後、舞台の上で展開されていた華々しい物語世界の中に観客が突然挿入され、物語世界は一瞬その自律的な進行を止め、現実そのものである観客の存在を何事もなかったかのように受け入れるのだ。会場はダンサーの神業に対して万雷の拍手で称賛の意を表すが、そのとき物語自体は完全に止まり、役を離れた(演劇的世界から離れた)ダンサーの個人的な偉業に対しての称賛に舞台の上の時間が費やされる。

 明確に分離されていた現実がその時だけは物語空間に挿入される。そしてダンサーが舞台袖に消えると物語は何事もなかったかのように再開する。

 能楽においては、そのような観客とのコミュニケーションが発生することはほぼないと言っていい。能舞台の上の能楽師は観客というよりも、神への捧げ物として舞台を勤めているし、橋掛の向こうへ能楽師が消えてから、とってつけたように拍手が起こることが多い。神の視線のもとでは人間の行為はまったく意味を持っていないとでも言うかのように。そして、観客の拍手自体は、能楽師の演技に対しての称賛としては大した意味を持っていないかのように。

 役者達の極めて抽象度の高い身振りを物語進行のエンジンとしているバレエと能楽であるが、観客との位相的な位置関係においては大きな違いがあると言える。

 バレエには時として観客の存在が演劇的空間に挿入されるが、能楽は徹頭徹尾観客の存在は演劇的空間に挿入されることはない。

 そういう意味ではバレエの舞台装置はダンサーと観客が共通の物語世界を共有するための手がかりのようなものであるのに対して、能舞台は観客の存在をある意味捨象してしまう神と能楽師との交信装置として考える方が自然だ。あくまでも能楽師と神との交信装置としての舞台。その交信装置はマクロコスモスを暗喩するものであり、宗教的な儀礼と同様に一般化されている。

(以下つづく、、、筈)