BearLog PART2

暇な中年の独り言です

いざ中の舞

 昨年の10月くらいから、「草紙洗小町」の舞囃子の稽古を粟谷明生先生につけて頂いている。今年1月の発表会で「草紙洗小町」の仕舞を舞わせて頂き、今までの発表会の中では、自分で言うのも何だが、かなりマトモにできた気がしている。

 終わった後の達成感としては、昨年4月にやらせて頂いた「国栖」の方があったのだけれども(それは今までやったものとはまったく違った性格の曲であったことが大きくて、できた、できないというところとはちょっと違う)、仕上がりも含めて考えると「草紙洗小町」の方が多分できがよかった筈?なので、自分としてはかなり自信がついた。

 「草紙洗小町」のお仕舞で一番気をつけたのは、詞章と舞をきちんと合わせるところだった。今まではなんとなく、型の順番を必死で覚えてぎゃーっとアナログにつなげて、何となく最後まで行ってシトメて終わっていたようなかんじだったけれど、「草紙洗小町」は詞章の言葉のひとつひとつに型をのせていくことを自分の目標にしたのだ。

 それと言うのも、ある気付きがあったからだ。

 以前にも書いたのだが、昨年12月23日に松山バレエ団の「くるみ割り人形」を観た時のことである。

 クララを演じた森下洋子先生の一挙手一投足があまりにキレイに音楽に合っていたのに驚愕したわけだ。まるで森下先生の身体に音楽が乗り移ったかのよう、その動きがとても印象に残った。森下先生のクララはもう何度も何度も見ている筈なのに、この日は特に音楽とのシンクロの具合が凄かったのだ。

 おーと思いながら、その翌日粟谷先生の「草紙洗小町」の動画を見ていた時、当たり前の話で何で今頃気付くのだろうと自分でも自分のアホさ加減に愛想が尽きるが、粟谷先生の一挙手一投足も詞章のリズムとぴたりとハマっているのを見て、またまたおー、と思ったのだ。

 能楽もバレエも音楽に「合わせて」いくものだ。合っていなければ音楽と舞を双方同時にやる必要はない。何を今更?ではあるが。。。

 音楽が自分の身体に憑依したかのように動かなければ意味がないんだなあということ、この当たり前のことを再確認してしまった。だからこそ、「草紙洗小町」については、きちんと詞章の持っているリズムに乗せていこうと、自分なりの課題を設定したわけである。この課題については、まだまだ上達しなければならないとは思うものの、現段階の自分としては精一杯のところまでやれたような気がしている。ここを前提としてさらに上を目指さなければ、と身を引き締める次第。

 ということで、「中の舞」である。

 「草紙洗小町」の粗筋で言うと、歌合で古歌を詠んだという濡れ衣を着せられた小町が自らの潔白を証明、その晴れやかな心持ちで舞を舞うところ、そこが「中の舞」を舞う部分。よって、絶世の美女が晴れやかな気持ちで爽やかに舞うというイメージ?になるんだろうと勝手に解釈している。

 基本的に笛に合わせて舞を舞っていくのだが、今まではお仕舞しかやったことがないので、詞章(言葉)に合わせて型を繰り出すタイミングを合わせていたのだが、これが笛に型を合わせるようになると動き出しのタイミングをとるのが一気に難しくなる(自分にとっては)。

 実際に稽古をつけて頂くときは、笛ではなく「唱歌」という笛の音を口真似したものをベースにやることになる。この「唱歌」というのは、「おひゃ〜ら〜」みたいなもので、まさに笛のメロディを口真似したものである。同じようなフレーズが何度か繰り返されていくので、自分の頭の中できちんと「今ここを演奏しているな、だからここはこの型だ」と整理しておかないと、たちどころに何が何だか分からなくなって頭の中が一瞬で真っ白になる。恐怖だ、ホラーだ。

 

 笛の音の中に拍子を感じて、その拍子にきれいにのっていくこと。「草紙洗小町」の仕舞で自分なりに会得した謡(音楽)の上にのることを「中の舞」でもできる限りやっていきたいところだが、しかし今の段階では、どの「おひゃら〜」で前へ出るのか、右を向くのか、といったタイミングを覚えるのでイッパイイッパイで、拍子を考える余裕はないのが現実だ。自らのCPUの貧弱さを呪う他ない。

 さてさて本番は4月14日。

 精進精進。