BearLog PART2

暇な中年の独り言です

オンラインとオフライン(稽古、そして仕事も)雑感

 ヴァイオリンのレッスンと能楽の謡の稽古がオンラインに移行している。ヴァイオリンのレッスンはZOOMを使い、謡の方はFacebookのMessengerを使って、オンラインでつけて頂いている。

 色々な考え方はあると思うのだが、自分にとっては非常にためになっている部分が多い気がしている。

 理由はいくつかある。

 最大の理由は、「一人でやらなければならない」というところ。

 オンラインミーティングツールを使うと、先生方に「合わせて」謡ったり、弾いたりすることがちょっと難しくなる。できなくはないのだが、それは同じ空間を共有してやって頂くのとは、ちょっと、というか、かなり違う。

 対面のレッスンであれば、ヴァイオリンでは先生の音に合わせて自分の音程を修正していったり、謡では先生や諸先輩方に合わせて声を出していたり、ということがよくある。

 これって、はっきり言って、自分でやっているようで実は自分の実力でやれているわけではないのだ。

 これがどうだろう。

 オンラインへ移行すると、先生と「同時に」ということが難しくなるせいで、「自分ひとりで弾いたり謡ったりしたもの」を先生方に聞いていただいて、間違っているところを後からご指摘頂く、という形態になる。

 これが非常にいい。

 自分で出来ていると思ったところが、実はひとりでやるとぜ〜んぜん出来ていないなんていうことはザラ、というかそういう方が多いのだ。だから、オンライン上では自分の実際の力というものがどの程度か、ということが非常によく分かる。これが何よりも有り難い。

 オンラインでは対面の稽古以上に、自分ひとりの能力が試される。集団に頼ることない力が必要になる。

 次にあるとすれば、生徒側の感情的なゆらぎが少なくなることだろうか。

 直接対面していれば、先生との関係上どうしても「緊張感」や先生に対するある種の「遠慮」が出てしまうところだが、直接の対面ではないということによって生徒側にはある種独特のリラックス感みたいなものが出てくるような気がしている。何と言っても稽古場ではなく、家でやれるということの心理的な安心感というのはあるのだと思う。それによってより率直な会話を先生との間で持つことが出来、それが故に色々な質問等をすることができるような気がしている。

 これも有り難いことだ。特に、家からできるのだから稽古場に行く時間は節約されているし、予定をうっかり忘れて飛ばしてしまうというような失礼極まりないことも起こり難い。

 自分は教える側ではないので、教える側においてどのような心理的な変化が出てくるのかは知り得ないのであるが、特に、問題はないのだろうと推察される。

 ここまで書いてきて、ごく当たり前のことに気付く。要するに先生と生徒の間の信頼関係がベースになっているな、ということだ。

 先生側は「ここまで言ってもこの人は大丈夫」といような指導の塩梅を熟知しているし、それは生徒の側でも同じことだ。それは物理的な接触の中で築かれた信頼関係にほかならない。

 この物理的な接触の中で築かれた信頼関係というのは、多分言葉だけでなく、表情や身振り等のメタメッセージのやり取りがあったからこそ構築されたものなのだと思うけれども、これについては後述したいところ。

 私自身がオンライン稽古に非常に満足しているというのは、二人の先生方との信頼関係があるからだ、というのはレッスン成功の必要条件として改めて明記しておく。

 

 翻って、仕事である。

 私が勤めている会社では、社内外を問わず基本的には対面のミーティングを禁止してしまっているので、ほぼすべての打合せや商談は社内外を問わずオンラインに移行している。

 これも個人差があることなのだと思うけれども、はっきり言って仕事についてはオンラインでやっていて、何の問題もないというのが今の所の実感だ。

 社員間の基本的な人間関係が構築済ということが大きいかもしれないが、特に問題にはなっていないという気がする。とはいえ、色々な人と日々膨大なチャットでのコミュニケーションなどもこなしているわけで、コミュニケーションに対する時間的なコストはそれなりに払っているのだが。

 人と人とのコミュニケーションは、言語だけではなく、表情や仕草といったメタメッセージを見ながら総合的になされるものだということはよく分かる。自分もできればそうしたい、とは思っている。それが信頼や安定した関係を構築するには一番簡単でよい方法だろうと思うのだ。

 では人間関係を構築できていない人との間の仕事上のコミュニケーションはどうなのか。現段階ではサンプル数はまだ少ないものの、何度か初対面の人とのミーティングもやってはみた。自分にとってはっきり言って何の問題もなかった。

 初対面の人はあくまでも初対面であり、相手を深く理解したコミュニケーションをとる必要がないというのが大きいのかも知れない。だから、初対面がオンラインであったとしてもなかったとしても、多分あまり気にならないのだ。これがビジネスが進んで、関係が複雑化していったときにどうなるか、ということは今後のフィールドワークで研究していきたいところだ。

 長期的な深い関係ということ言えば、前述の師弟関係に戻ってみよう。

 先生と生徒の間では、長期間に渡るメタメッセージのやり取りから信頼関係が醸造されているのは紛れもない事実であって、先生が怒っていてもそれは個人攻撃をしているというわけではない、という当たり前のこと等は、メタメッセージによって、怒っている事象に対する明確な否定がないと大変なことになる。

 まあ確かに。メタメッセージは必要かも。

 故に、対面・物理的な接触は絶対に必要なのではないか、ということを安易に結論としやすいのだが、しかしどうだろう?

 例えば、私がよく知るところではないのだが、若い世代になるとLINEの応対の感じだけで、相手の胸中を推し量ったりしているやに聞く。

 その話を聞いて思うのは、多分人間の長期的な進化の方向としてオンライン上でも相手側のメタメッセージを読み取る方向に感覚器官が進化していくのではないだろうか、ということである。

 そして、物理的な人間と人間の接触が減っていく方向に人類は進化?していき、ここ数世紀間で、猛り狂ったように広まっていた物理的移動に関する興味関心欲望がどんどんと冷めていく。など、ということも想像に難くない気がする。

 それがいいことか悪いことかは知らないけれど。少なくとも、オンライン上で相手の発するメタメッセージを感知するための感覚の未発達やそれに関する社会的なプロトコルが整備されていない今現在で考えれば、オンラインオンリーの社会システムの早急なインストールはデメリットは大きいとは思うけど。

 

 私が勤務するような会社では、郵便物の受け取り、支払い業務、ハンコワークみたいなもの(そういったもの対応で、私を含めた4名の社員が交代で月曜日か木曜日に出社しているのが現状)以外、私自身は二週に一回は出社を余儀なくされている。それで回っているということは、各人があちこちにてんでバラバラにいてもあまり気にならないということなのだ。

 まあ当たり前の話だが、その感覚には個人差があるとは思うけれども。

 さらに妄想をたくましくしていくと、人が集まることに対する価値が急速に薄れていくので、商業地よりも住宅地の方が価値が高くなったりするのではないか、なんて思ってしまう。

 三密が感染リスクを上げるのであれば、銀座鳩居堂前の土地がいつまで高値を維持することは案外難しいのでは、なんて思ったりもする。天然痘が絶滅に何世紀かかかったということを考えれば、人類は新型コロナとしばらくは共存していかなければならないわけで、ワクチン等が完成するまでの間、その間はずっとではないにしても、三密的な空間を避けるインセンティブが働くことになるだろう。

 人が大量に集まることよりも、ひとりひとりの人間が離れて安全に暮らすということの方が価値が出てくる、というのは人類史においてはすげえパラダイム・シフトだと思うわけだ。

 まあいいや。こういった考察は別の機会でまとめていこう。