「生権力」。
この三文字が切迫感を持って聞こえてくるのは、まさに今が新型コロナ禍の真っ最中にあるというためである。
確かに東氏が言うように
人類は残念ながら、生き残るためには家畜になってもいいと判断した ようだ。
東氏はそれで本当にいいのだろうか?と疑問を呈しているわけだ。彼はこのエッセイをこう結んでいる。
人間は確かに動物である。だから動物を管理するように管理すれば感染は防げる。でも同時に人間は動物では「ない」。そのことの意味を、絶対忘れてはならない。
そうなのだ。
私達は人間である。しかし動物でもある。崇高な自由やビジョンを求めてもいる。しかし何よりも安全に生き残りたいということを強く望んでいるのも事実である。
この「動物」か「人間」かという二者択一で考えていけば、そのままデッドロックに陥ってしまうのは明らかだ。そう考えていくと、東氏はこのエッセイ中でこうも語っているところにヒントがあるような気がしてきた。
本当の選択は「現在の恐怖」と「未来の社会」のあいだにもある。こんな監視社会の実績を未来に残していいのか。
これをそのままパラフレーズしていけば、
本当の「人間」は「現在の家畜」と「未来の人間」のあいだにもある。
ということが言えるのではないか。
家畜と人間の間。
そこに新しい人間像があるのではないか、とふと思った次第である。家畜でもなければ、従来考えていた人間でもない存在。
フーコーだって、「言葉と物」の最後に「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅する」のだと言っていたわけだし。未来の社会において想定される「人間像」はどのように変貌していくのか・・・。
新型コロナ禍の中で、監視するしない、動物/人間の二項対立を超えた新しい人間像を定義した方がいいような・・・気がしております。