BearLog PART2

暇な中年の独り言です

娘の中学受験が終わって思うこと(その1)

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無事?でもないが、娘の中学受験が終わった。

 親が言うのも何だが、あの勉強量でとりあえずは合格を二つ勝ち取ったのはすごいとは思う。改めて娘に「おめでとう、よく頑張ったね」と言ってあげたい笑

 それはともかく。

 昨今の中学受験はすごいの一言に尽きる。

 倍率?

 いやいやそれもあるけど、入試に関する手続の方だ。

 旧来型の名門校がどうなっているのか知らないけど(娘が受けていないから知らない)、今や願書はネットで提出できるし、受験票は自宅プリンターでプリントアウトして、そこに証明写真を貼ればいいだけ。

 受験料や入学金の納付はクレジットカードですむので、国策にも合致するキャッシュレスを達成している。

 しかも締切は試験の前日までで、合否の発表についてもネットで当日中に確認できたりもする。

 すごい。

 自分が中学受験をしていた四十数年前と比較すれば、当たり前の話であるが、雲泥の差、インターネット万歳!という感じである。

 便利になるのはよいことだし、日に日に変わる合否の状況に応じて最適な出願が可能になるということで、受験生及び学校の双方にとってメリットのある話だから歓迎こそすれ、文句をいうものではないだろう……と思いつつも、典型的な昭和世代としては郷愁に噎び泣くという感じではないのだが、そこはかとない違和感を感じざるを得ない。

 教育と利便性の話だ。

 教育というのは、冗長性の塊なんではないかと考えている、冗長性と言えば聞こえはよいのだが、要するに「無駄」の塊っていうことだ。

 娘の勉強を見ていて、受験に必須の「四則混合計算」というのがある。要するに+、−、×、÷がぐちゃっと全員総出演する面倒な計算である。こんなもの、はっきり言って、計算の順番だけ確認すればよいわけで、その後はカシオの電卓におまかせすればよい。スマホにだって計算機くらいは乗っているし、エクセルくんという下手な大人よりも計算が得意なアプリの類だってあるわけである。

 漢字の書き取り、だってそうだ。スマホやパソコンに入力すれば勝手に変換してくれるわけで、出てきた候補の文字の中から選べばよいだけなのに、何回も何回も書き取りをする必要なんか、少なくとも大人になってしまえば必要ないわけだ。

 歴史の年表、理科の月の満ち欠け……みんなGoogle先生に聞けば一発でわかる。

 これって無駄(冗長性)の塊ではないだろうか?

 そう、教育というのは効率化の対極にある何者かなのである。

 この冗長性がよいのか悪いのかということは別の機会に議論するとしませう。

 ということで。

 コンテンツが冗長なんだったら、それを取り巻く手続も冗長であってしかるべし、なのではないだろうか(半分笑い)と思っただけなのだ。

 とはいえ、忙しい親からすれば手続類が大幅に削減されるのは嬉しいことではあるが、そもそもが冗長性の塊である教育においては、その入学の手続の冗長性が今後来るであろう教育コンテンツの冗長性のプロローグになっていて、いい感じなんだと思うんだけどなあ……。

 だって、サクサク手続できてしまったら、この後たくさん出てくる冗長な教育コンテンツと複雑怪奇なスクールライフもサクサクいける!と思ってしまうじゃないか。どうせ、この後山あり谷あり、なのになあ。

 勘違いしちまうぜ。

 と、クレジットカードで入学金を払い終わった後に思うのだった。

 これって、ただの郷愁の念かもしれない(自嘲)。

 反動的だな、我ながら。

 その二につづく。