娘の中学受験についての話、第2回目である。
第1回はこちら。
実のところ、うちの娘は自分が希望していた中学校に合格することはできなかった。この「合格」という言葉について、お受験父兄は時折「御縁を頂く」という不思議な言葉を使うことがある。この「御縁」という言葉は中学入試よりも小学校入試でよく聞かれたような気がする。
「御縁」
自分はこの「御縁」という言葉に対して強烈な違和感を持っている者である。
とはいえ、何で自分が違和感を感じるのかということを突き詰めて考えてみたことはなかったわけで。
よい機会だからちょっと考えてみたい。ならばその正確な意味を知るところから始めようではないかと考えた次第である。
「御縁」というのはあくまでも「縁」であって、「縁」という言葉を岩波国語辞典で調べてみると、
①一般に、物の周辺部。ふち。
②つづきあい。たよりにする。てがかりにする。関係。
③(仏)原因を助けて結果を生じさせる作用。まわりあわせ。
といった意味がつらつらと出てくる。これに対して同様に「合格」を調べて見ると、
一定の条件や資格にかなうこと。試験や検定などに及第すること。
と、出てくる。
この意味を前提として、学校から「入学してもよい」と言われた場合、どちらを使ったほうがよいのだろうかとしみじみ考えてみる。
入学試験の選別によってその学校との「縁」ができたのだから「御縁を頂いた」と言うのは、あながち間違いではなさそうだ。しかしながら「御縁」と「合格」の言葉の違いというのは明らかにあるわけで、その差異は決して小さなものではないと考える。
「御縁」と「合格」
ううむ、もうちょっと考えてみないと分からない。考えろ、考えろ(竈門炭治郎風)。
「御縁」はあくまでも「関係性」であって、「合格」は明らかに学校側の要求する水準をクリアしたということを意味する。ということは、
「合格」することによって、学校との「御縁」をちょうだいした。
ということが、一番正しい表現法なのではないかと考えた。
ここまでツラツラと書いてきて、何で自分が違和感を感じていたのかがはっきりと理解できた。
要するに、「御縁」とだけ言ってしまうと「合格」という言葉が忘れ去られてしまうような気がしたからなのだ。つまり、「学校」との「御縁」ができるためには、「学校」が要求する基準に「合格」することが必要なわけで、「御縁」を頂くための必要条件として「合格」というものが存在するということ。
この「合格」のためには自律的な努力が必要だ。「合格」という言葉を発することなく、「御縁」という言葉のみを発してしまうと、その自律的な努力を無視しているように感じられるのだ。全員が全員そうは感じられなくとも、少なくとも私にはそう感じられる。それに加えて、「御縁」という言葉は多分に努力の有無ではなく、「偶然」という側面を強調するような感じもするのだ。少なくとも私はそう感じてしまう。
ということなので、「御縁を頂く」「御縁があった」と言う前に、
「合格したので、御縁を頂いた」
「合格したので、御縁があった」
と言った方が自分としてはしっくりくるのだということにここまで考えながら書いて到達した次第。
そう言わないと我が娘の慎ましやかな努力を無視してしまっていることにつながるから笑。
これ以上のオチはありません。悪しからず。