人は入ってくるキャッシュ以上にキャッシュを使うことは出来ない。入金以上に消費できない。
一人一人の個人の「入金」というものは、それぞれが社会に対して提供している「付加価値」とイコールなはずである。人は自らの付加価値以上の消費は原則としてできない。
ここで原則として、と言っているのは、借入等によって一時的な入りと出のギャップを埋めることができるからだ。要するに、一時的なギャップを埋めるために、詳細にその人が社会提供するであろう付加価値を先食いするのが、多分借金というものだ。将来の付加価値を先食いするから、当然リスクがある。
リスクはともかくとして、一人の人間の一生という意味で言えば、
一生の間社会提供した付加価値=一生の間の出金(消費総額+投資総額)
というごく当たり前の恒等式が成立する。当たり前とはいえ、これが、付加価値<出金となってしまう場合ってどうなるのか? 多分、出金−付加価値=回収不可能な借金 ということであろうから、多分誰かが泣いているわけだ。
では付加価値>出金となるとどうか。付加価値−出金=純資産 ということであろうから、この場合は死して美田を残したケースということになろう。
ミクロで見ると多分こんなかんじ。出金は、フローで消えてしまうものも耐久消費財への投資も含めて、何らかの「所有」と完全にリンクしているはずだ。お金を払う=所有権を買うということだ。
付加価値<出金のケースは、ある意味、資本が増殖しているケースなのではないか。
付加価値>出金のケースは、多分資本が増殖しないケースではないか。
というのも、「出金−付加価値=回収不可能な借金」になった場合、誰も泣くわけにいかないから、この「回収不能な借金」を将来何らかの形で回収しないと帳尻が合わなくなってしまうから。その帳尻をどうやって合わせるかというと、「将来の付加価値の増加」で埋め合わせていくこと以外に方法はない。そいうことは、回収不能な借金が出ない限り、逆に言えば、資本の増殖はない。資本が増殖するということは、付加価値以上の出金(=投資+消費)を、一人一人の個人が強いられるということなのではないか。
自分のための備忘録ノートなので、理解不能だと思います。すみません。