BearLog PART2

暇な中年の独り言です

ついにきた、発表会 その3

このエントリを楽しみにして下さっている方なんて、いないとは思うのだが、一応「その3」を自分の備忘録として書くことにします。「発表会」をテーマにしてはいますが、ヴァイオリンのレッスンを受け始めて以来の振り返りになってしまっております。すみません。こんな中年の練習記録みたいなものが、皆様のお目にとまっても何の役にも立ちますまい苦笑

一番困っていた(いる)のは、「力を抜く」というところだ。弾いているうちにどうしても力が入ってしまう。まずは右手。弓を持つ右手、特に一本一本の指を柔らかくすること。師匠がおっしゃるには、
「鉛筆で字を書くときって、腕や肘をつかって鉛筆を動かさないですよね。まずは指で鉛筆を動かし、さらに動きが足らなくなったところで手首や腕が動く。そんなイメージです」
とのこと。
イメージは確かによ〜く分かるのだ。しかし、そのイメージを具体的に身体を使って物理的に実現していくというところが恐ろしいほど難しい。イメージと物理的な身体の動きの間のギャップが激しい。
スポーツなんかでも、昔のイメージで脚を出そうとすると、身体がついていかないというか。これはむしろ、身体の加齢の問題なんだと思うけれど、私の楽器の練習について言えば、要するに、身体とイメージを繋げる脳内の神経がつながっていないということなんだと思う。
とにかく、イメージすれども身体はその通りには動かない。自分で自分に対して腹を立てる。とはいえ、腹を立てても事態はまったく良くならない。冷静に練習していくしかないわけだ。

そんな中、Amazonを巡回していたところ、こんな本を見つけた。レビューなんかをつらつら読んでいると面白そうだなあということで、思わず買ってしまったわけだ。

演奏家のための「こころのレッスン」―あなたの音楽力を100%引き出す方法

演奏家のための「こころのレッスン」―あなたの音楽力を100%引き出す方法

そもそもこの本で取り上げられている「インナーゲーム」というメソッドは、まずはテニスから始まったらしい。
本書では、スポーツや楽器演奏をしているとき、2種類のゲームが並行して進んでいるという。ひとつは実際の試合や演奏、これをアウターゲームと言う。そして、もう一つは自分の内面の葛藤、これをインナーゲームというらしい。さらにインナーゲームの中では、セルフ1とセルフ2という2人の自分がいるんだと〜。セルフ1は、ひたすらセルフ2に命令をし、コントロールし、ミスをする度に「畜生! もっとうまくやれたはずだ!」みたいなかんじで悪態をつくらしい。
一言で言ってしまえば、セルフ1を抑えて、セルフ2を開放すれば、うまく弾けますよ。セルフ2を開放するためには、こんな練習方法がありますよ、という事例がた〜くさん掲載されているわけである。
こういうメソッドを信じてみることで、師匠が常に仰っている「力を抜く」ということが可能になるのかなぁと思ったわけである。それはともかく、一読して、世の中には便利なメソッドがあるもんだなあと単純に思った。実際に譜面や練習方法が、かなり事細かく書かれている。ふ〜ん、というかんじだ。内容についても、いつも師匠から言われていることとほとんど齟齬がない。なるほどな〜と出張の移動中に貪るように読んでしまった。
その具体的なメソッドについてだが、一言で言ってしまえば、目の前で進行している事象に自分の注意をひたすら向ける、というものだ(と、いうのが私の理解)。要するに、どこか特定の身体の部位などに意識を集中させ、余計なことを考えない、みたいな話なんである。実際に恒常的に楽器の練習を始めるようになってから、なるほどなあと思う節はある。ある意味、余計なことを考えて、自らの自意識で身体をコントロールするよりは、目の前の事象の中に注意を向けて、その流れの中で自然体でいる方がうまくいく、というわけだ。
まあ考えてもみれば、関係あるのかないのか分からないのだが、ブルース・リーも「考えるな、感じろ」と言っていることだし。
パラフレーズを続けるとすると、セルフ1なるものとセルフ2なるものは、フロイト的な「意識」と「無意識」の関係や「右脳」「左脳」の関係などともかぶるところはあるが、筆者は、それらとの明確な対応関係を一応否定はしているが、字面だけだとかなり近い関係にあることは蛮人じゃなくて万人がすぐに気付く。

それについて、思想的、理論的に賛同するかどうかは別にして(ラカンが言うように、「無意識は構造化されている」という話もあるわけで、単純な2項対立だけで、すべての説明がつくとも思わないし、そこでヘーゲル弁証法的にさらに高度の自我が……という話でもないだろうし。そもそも、自分の性分を考えると、この手の極めてプラグマティックな話についてはすべからく拒絶反応をしめすんだが、あまりその手のアレルギーが出なかったという事は、それだけ自分にとって切迫した課題だったのだろうと今更ながらに思うのだった)。
セルフ1とセルフ2の葛藤するインナーゲームというものを考えたとき、これって、何となく誰もが経験してきたことなんではないかな?と思うのである。ある事象の一面を的確に捉えているような気はするわけなのだ。
何でそんなことを言うかというと、伴奏合わせのとき、「自分は今まで人前で話す機会も多かったし、辛い体験、修羅場もそれなりに多かったから、伴奏合わせごときでは緊張しないだろう」と高をくくっていたのだが、それがそれが……。
膝が震えるほど緊張してしまったのだった。
これは自分にとって、恐ろしいほど新鮮な出来事だった。

発表会では師匠ではなく、プロの演奏家の方がピアノの伴奏をつけて下さる。その方との初顔合わせ、そして自分の演奏する予定の曲を一度流してみる、というもの。当然、娘と同じタイミングでお邪魔する。
私がいつもレッスンでお邪魔している某幼稚園の大きな部屋でやったわけだが、そこでは順番待ちの方々が既に何組かいらっしゃるわけである。自分の番になって、その光景を見たら、何と、
身体に入った力が抜けなくなってガチガチになってしまったのである。
実は私は上がり症なのか?!と自分でも驚くくらい、緊張している自分がそこにいた。ミスや音程等々、そんなこと以前に伴奏の音もよく分からんし、自分の音がどうなっているかも、何だか分からない。今まで経験したことはないのだが、頭の中が真っ白というのはこういう状態のことを言うんだろうか。
上手いかどうかは別にして、人前で楽器を演奏する体験がなかったわけではない。しかし、伴奏合わせで、これである。
これは自分にとってはある意味、もの凄い驚きなのであった。
いやまあ。
演奏が終わると師匠が、
「ガチガチでしたね〜。右手もコチコチに固まってましたよ」
と言ってニコニコしている。
そうなのだ。とにかく、ガチガチだったのだ。

ということで、実感から言えば、セルフ1とセルフ2の葛藤という形で説明がつくような気もすれば、「それ以前」というような気もするが、うちの師匠のところは、もちろん大人の生徒さんもいるのだが、比較的小さい子たちが多い。そんな小さい子の中で、五十近い大の大人が何だよ、あの体たらくか?と言われるのではないか、というようなセルフ1的な意識が強かったのではないかと、今になって思い返す。
そんなセルフ1を黙らせて、もっと何か特定の部位なり事象だけに注意を向けられれば、「ガチガチ」状態がら脱する事ができるのではないか?と考えたり。いやまあ、それはともかく、人前で慣れないことをするのは大変だ。

ということで、まだ発表会に辿り着かないのだが、ここで一旦切ります。ごきげんよう

(つづく筈)