BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 Darwin's nightmare

 邦題は「ダーウィンの悪夢」。そのままじゃん(笑) 最近は邦題が原題よりも主張が激しい場合もあるので。
 映画の中身については、ホームページをご覧頂くとして、ここでは観賞後の感想だけ。
 衝撃的な映像が続くので、映像作品としては面白いと思う。ストリートチルドレン、漁師、研究所の守衛、ロシア人パイロット等々、インタビューに答える人々も、脳裏に焼き付いてしまうような台詞を呟く。
 とはいえ、ドキュメンタリーを見るときに注意しなければならないのは、それは事実と違い、あくまでもカメラに切り取られた現実であるということだ。カメラが切り取らなかった現実は、切り取られた現実よりも悲惨かもしれないし、それほど悲惨ではないかもしれない。なので、そこは割り切って見なければならないのは事実なのだが、しかしながら、ここで監督が選り抜いた映像群は非常にインパクトを持つ。一見の価値はあるとは思う。
 量子力学ではないが、こうやってカメラに切り取る人々がいる限り、現実はその時点で変わってしまう。カエサルが言うように、人は自分が見たいものしか見ることができない、からだ。別の言い方をするならば、観測者の存在が事象を変えてしまう、ということだ。その事実に自覚的であるかどうか、そこは鑑賞者の資質を問う、ところではある。
 先にも述べたが、映像自体は非常に衝撃的である。特に、大学のときにケニア旅行の経験がある私からすると、アフリカのあの独特の土の色、空の色、空を舞い飛ぶ鳥等々、自分の皮膚感覚として残っていたようなものが蘇ってきて、不思議なリアリティが立ち上った。とはいえ、それも私の脳の中で歪められたこと、ではある。茂木健一郎流に言うなら「クオリア」だ。そういう意味では、この映画の映像が、なにがしかの衝撃を私自身に与えていることは事実なのだ。その衝撃をどのように解釈するか、そこが今の私には難しいところでもある。私自身がこの映像によって、宙づりになってしまっていて、価値判断ができなくなっているからだ。
 貧困、搾取といったステレオタイプな図式で落としてしまうこともできなくはないが、しかしそのステレオタイプに陥った瞬間に、思考が停止する。貧困、搾取の映像といっても、それは映像にしか過ぎず、事実/真実とは程遠いもの、だからだ。価値判断の材料とは違う。だからこそ、私はその映像の前で宙づりになってしまう。
 真実はどこにもない。
 一つの映像があるだけなのだと思う。
 その映像をどう思うかは鑑賞者の自由だが、映像が真実ではなく、映像は映像に過ぎないという観点をなくさずに(ある意味、良くできたフィクションとして観ることなのか?)、その映像を味わい尽くしていくことがよいのだろう。味わった末に何が出てくるかは、人それぞれだとは思う。そこでは価値判断からは自由にならなければならない、とも思う。自戒の念を込めて。
 繰り返しになるが、映像の衝撃度では、かなりのものだと思う。その切り取られた映像を自分の中でどう消化して、どう判断していくか、それが我々に課せられた重い義務なのだと思うのだ。
(観てない人には分からないと思うので、何はともあれ、一見の価値はあるので、是非観て下さい)