BearLog PART2

暇な中年の独り言です

やっと観れたよ、Dune Part2 

 一作目を観たときから、Part2が気になっていたのだ。

 厳島神能があったりして、観るのが遅れていたのだが、滑り込みセーフ的にやっと5月3日に観ることができた。

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 実は自分は恥ずかしながら自分は原作を読んでいないのだ。ということで映画が面白かったということもあり、おもむろに原作も買ってみる。

 原作を読んでいないにも関わらず断言してしまいたくなるのだが、VFXというのはそれ自体が目的なのではなく、作品世界の世界観やそのドラマツルギーを表現、実現するためにあるのだ、ということを否が応でも認識せざるを得ないのがこの作品だ。

 この前、お気に入りの監督であるはずのクリストファー・ノーランの「オッペンハイマー」を酷評したばかりなのだが、

 

kumaotaku.hatenablog.com

 ドゥニ・ヴィルヌーヴもかなり好きな監督の一人だ。そもそも「メッセージ」を観たときに痺れた。

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 地球外知的生命体とのコンタクトを描きながら、その出来事が主人公の言語学者の個人的な体験と密接にリンクしてしまうというアイデアは、普通の地球外知的生命体との遭遇物語だけにとどまってしまう話よりも深みと厚みを加えているような気がする。時間認識がこの物語のキーであり、その時間認識に抗うことのできない人間存在の悲劇的な様相をも同時に描くという荒業に比較的成功していたと言えよう。

 でもって、「ブレードランナー2049」である。これも過去一応考察していたりする。前後して「インターステラー」も観ていたというのが何か個人的な歴史を感じるところだが。

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 煎じ詰めると「インターステラー」も「ブレードランナー2049」も父と娘の物語だった。壮大な仕掛けを動かしつつもその仕掛けの奥底には親子関係という古式ゆかしい生物学的な現実が横たわっているという、ふたつの作品の中に通底する不思議な相関関係を自分は観ていたわけだ笑

 で、「Dune」である。

 これは言ってみれば典型的な貴種流離譚である。貴種流離譚をベースにしながら、アラブ民族的な要素や生態学的なものを突っ込めるだけ突っ込んだ原作(読んでないから推測とその他周辺情報による汗)の成り立ちを考えると、ヴィルヌーヴが「メッセージ」「ブレードランナー2049」で描いてきた「個人のミクロコスモス」と「個人を取り巻くセカイというマクロコスモス」のリンケージのようなものにこだわっているということが何となくおぼろげにではあるが、分かってくる。

 マクロコスモスとミクロコスモスを同時に描こうなんて、昔からある話であってちっとも新しくはなかろうと反論される方もいらっしゃるだろう。

 まさにそこなんである。

 これは別に古くからある話だ。話は少し脱線するが、この古くからある話に対して、日本的な「セカイ系」の文脈が衝撃的なカウンターを放ったのは、「マクロコスモスがミクロコスモスへ一方的に影響を与える」という図式を「ミクロコスモスの存在とあり様がマクロコスモスを決定してしまう」というその因果律のベクトルを逆転してしまったところにある。人間は宇宙の哀れな一要素ではなく、一人の人間の存在が宇宙のあり様を決定してしまうというのは、ある意味では痛快な考え方で、一人の人間の存在を描くということでは、ティーンエイジャー受けするであろうラブコメや学園モノとの親和性が高いため、無数のバリエーションを生み、一大ジャンルとして定式化されたのだ、と自分は考えている。

 おっと閑話休題

 ヴィルヌーヴの描く世界では、「ミクロコスモス」は「マクロコスモス」に抗うことのできない人間存在を前提としているが、「メッセージ」と「Dune」では人間存在と時間の関係に注目すべきかと考える。

  「メッセージ」では言語学者は自らが被るであろう未来の悲劇を知ってしまう、そして「Dune」でポールはメランジの効用により未来を観ることができるようになる。自らの未来、行く末を知るということは、マクロコスモスから受けるであろう力、影響を事前に察知することができるということでもある。

 なぜ人はマクロコスモスを恐れるか?

 それは時間の中において未来を知ることができない、すなわち将来被るであろうマクロコスモスからの自分自身に対する力、影響の行使の有無や種類がまったくわからないからである。未来が見えてしまうということは、それに対する対処法を多少なりとも考えることができるようになる、もしくはそれに対するココロの準備をすることができる、という意味において、恐れというものが本質的に変わっていくと言えまいか。

 所謂因果律が大きく変わってしまうということだ。この因果律の逆転についても古くから物語のネタにはなっている。

 つまり未来が分かっているのだから、努力しても無駄だろうという虚無主義者、その一方では、いやいやその未来に至るまでのプロセスには人間の努力や意思が介在する余地があり、だから人は最後の一瞬まで希望を捨てるべきではない、という楽観主義者、これら2つの流儀を必然として生み、その2つは常に宿命的な対立関係に陥り、その対立関係が物語を駆動する原動力となるわけだ。

 一言で言ってしまえば、ヴィルヌーヴが「メッセージ」「Dune」で描いているのは、因果律とその因果律から逃れようとする人々の勝算なき抗争ということにならないだろうか。時間軸にそった物語(因果律)に対するメタ物語(非因果律、もしくは予知による結末の先取り)とでも言えばいいのだろうか。

 で、ちょっと牽強付会になるのだが、この「物語」と「メタ物語」を映像的にうまく表現することが意外と難しいということだ。

 同じような物語構造を持つ「インターステラー」でのノーランの表現について言えば個人的な感覚で言わせてもらうと悪くはないけどベストではない。ヴィルヌーヴの「メッセージ」でも悪くはないけどベストではない。

 ところが「Dune」では自分の感覚でいうと自分の知る限り一番よい。そこでは俳優の身体性やVFXすべてが、この「物語」と「メタ物語」のウロボロス的な抗争を見事に表現しているのだ。そこが自分にはとても納得のいくところなのだ。マクロコスモスとミクロコスモスを同時に描きつつ、物語の必然として存在する因果律とその因果律に反する結果の先取り、そのウロボロス的な抗争をもっとも上手に映像に表現している気がするのだ。まあ原作がいいということもあるんだろうけれども。

 なので、3時間近い尺も自分は飽きずに観ることができたし、画作りの素晴らしさがドラマやキャラと一体になっている。これは個人的にはヨダレが出てしまう感じなのだ。

 ということで、くどくど書いたけどヴィルヌーヴの「Dune」は本当に面白い。

 この続編が出るならばやはり無理してでも劇場に足を運ぶことになるだろうなあ笑