BearLog PART2

暇な中年の独り言です

童の心を推し量るということ

 無理なんだと思った。

 自分が童の頃に何を感じていたのかということを、私は比較的きちんと覚えていたと思い込んでいたのだが、多分もう私は、童の心を完全に忘れているようだ自嘲。
 自分が子供の頃、例えば親から平仮名を習った記憶をひもといてみた、とする。
 確かに平仮名を習ったし、「さ」とか「け」とかで鏡文字を書くと「それは逆なの」と窘められた気もする。しかし、「逆よ」と母親に窘められたときに自分が何を「感じていたのか」ということを正確に思い出すことは不可能なのだ。なぜならば、自分が「童」だった頃の記憶をたぐり寄せること自体、既に大人の心のOSに組み込まれた検索ツールを使っているから、その時点で、既に、「童」の心をありのままに把握しようとしても、
 無理。なのだった。

 童を知るには童にならなければいけないのだが、それは物理的に無理、というものだ。
 何でそんなことを思い始めたのかというと、娘が自分の想定通りの反応をあまりにしないことが多いからなのだった。そりゃあそうだよ、子供とはいえ完全に別人格だからさ、ということは百も承知なのであるが、それでも「自分がこの年齢だったときは……」という前提で予想したことが、ほぼ全て、
 裏切られた。外れたwww
 ためである。少なくとも大人相手であれば、相手の行動予測ってもうちょっと当たることが多いと思う。こっちの常識で「こういうリアクションあるよね」と思えば、まあそこから当たらずとも遠からずの結果になったりするし、相手のリアクションをピンポイントで予測できなくても、「選択肢AとBとCの中のどれかだろう」というあてをつけることもできるし、その確度はけっこう高い。
 しかし。しかしである。
 自分の娘に対しては、ことごとく外れるのである。ということは、私は娘の心をまったくもって理解していないということになるのではないか? それは何故か?と考えて行った時に、「別人格」である以上に、「大人」と「童」の差分なのではないかと思い当たったわけだ。
 草薙素子も「攻殻機動隊」で言っていた(これって何が原典なのでしょうか?不勉強なもので分かりません)

童の時は、語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとく也しが
人となりては、童のことを捨てたり

 ってここまで書いて、昔、自分が、2012年9月21日に、

子供が子供でいられるのはいつまでか。押井守は「攻殻」の中で、「童の時は、語ることも童のごとく思うことも童のごとく論ずることも童のごとく也しが人となりては、童のことを捨てたり」と草薙素子に言わせている。勿論自分で覚えていたわけではない。ネットから引いてきたw オリジナルは誰の言葉?

 というtweetをしていたことに唐突に気付く、というか「童の時は」の一節をwebで引いてこようと検索かけたら、自分の過去のtweetまでひっかかってきたwww

 それはともかく、だ。

 とにかく、大人が童の心を推し量る事は無理だ。だとすれば、どうやって子供と向き合うのだろう? 向き合えばいいのだろう?
 と、ここまで書いて、ごく当たり前のことに気付く。

 無条件に愛すればいいのだ。
 とwww

 理解してはいけない。愛するだけでいいのだ、と思ったら、ちょっと気が晴れた。言葉にできないものの前では口を閉ざすしかないでしょって、ウィトゲンシュタイン先生も言っている。訳わからないけど、娘が可愛いのだけは事実だから、四の五の言わずに愛すればいいのだな、と。

 という阿呆な思考プロセスにつき合って下さった方に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
 ということで、おやすみなさいw