BearLog PART2

暇な中年の独り言です

「ブレードランナー2049」に親バカな父親涙する

(ある意味ネタバレなのでご注意を)
 最初に言っておくと、想定していたよりも印象は良かった。
 そもそもスカヨハの「ゴースト・イン・ザ・シェル」的な超の上に超が付くようなトンデモぶりはあまりないから。ただ、それは裏表であって、トンデモがないということは、一作目を周到に踏襲(駄洒落じゃないよ)したということを証明する以上のものではないのだ。
 とはいえ、物語的にはフィリップ・マーロウがちょっとエリン・ブロコビッチに近付いたような感じ(ロスの裏町の暗い話から、企業の陰謀系の話)はしなくもないが、私の中ではその程度のフレイバーはもはやリアリティを持たせるための必要悪だから、仕方ないんじゃね?と思う。
 この映画が私の中のある種の感情を刺激するとすれば、それは昔を懐かしむ「懐古趣味」のところである。最初に「ブレードランナー」を観たときの感情を自分の中で再度愛でるという行為そのものが、「2049」を見るときの感じなんである。それは気持ちの悪いものではないのだが、本来的な自分の中でのSFを観るときの流儀とはかなり異なっている。そもそも、SFって、私の中では既存の社会システムや科学技術のフレームワークを一度全部取り去って、真新しいスクラッチのところから新しい「世界観」を提示してくれるものであったと思っているので、そこにはかならずある種の衝撃的な驚きが存在する。
 しかし「2049」に驚きはあまりない。
 ある意味、いつものSF的な風景が反復されるのみ、である。だから、トンデモはない。でも驚きもない。
 ここで出て来る映像は前作のフレームワークを忠実に踏襲し、その世界観からは一歩も出ない。むしろ、その世界観の中に引きこもり耽溺し、それをある種の公理として話を組み立てるから、ロジカルな部分では破綻もしているし、辻褄が合わなくなるし、オールドファンからは細かい差異を指摘されて、何だかなあ、、、という感じになってしまうのは容易に想像がつくところだ。
 再生医療脳科学等の最新の研究成果は近年どんどん出ているのだが、そこを意図的に?あまり盛り込まず、古い一作目のキャラと世界観(公理系)を持ち込んだんだから、出て来る結果は三平方定理並の陳腐な結果(ストーリー、もしくは物語的帰結)が出てくるわけで、そこについては世の中に相当数存在するであろう「アンチ2049」の方々に対しては抗弁しようがない。

 この映画で、私が唯一涙するのは、「父と娘」の関係なのだ。要するに太古の昔から続く親子の情愛、関係、それに類するすべてのことである。それはSFとは相容れないような古式ゆかしい人間的感情でしかない。懐古主義的SFの設定の中で物語の根幹に位置するのは「父と娘」の愛情なのだという、一見共存が難しいものが共存している状態。正確に言えば、共存と言うよりも、むしろ並置とでも言えばいいのだろうか。無造作に投げ出されているかんじ、である。
 すげえSF的な理論構築をしながら、最後の一点で「父と娘」に帰結していく物語、と言えば、あれもそうだった。「インターステラー」である。
 そういう意味では、「2049」を分解していくと、「ブレードランナー」+「インターステラー」と言えなくもない。
 ってか、あのラストは、絶対に「インターステラー」を意識している。

 とはいえ、親バカな父親は「2049」において、「父と娘」に収斂していくラスト、そこだけに涙するのであった。