以前述べたように、私は埼玉県戸田市で18歳まで育った。戸田市は埼玉県南部に位置し、荒川を挟んで東京都と接している。中山道の「戸田の渡し」でも有名だ。
詳細は下記リンクでWikipediaを御覧ください。
私が住んでいた頃は埼京線も開通していなかったので、鉄道を利用したければ西川口駅か川口駅まで出る必要があった。その場合は自転車やバスを利用せざるを得なかった。
そりゃあもう大昔のことだ。
戸田市に住んでいた時間が18年間なのに対して、杉並区には30年以上住んでいるわけで、当時の記憶も徐々に薄れてきたというのもあって、その記憶も薄れつつあるが……、薄れつつ記憶を紐解き書き記してみる。
当時(1970年代〜80年代半ば)、戸田市では企業の製造設備や倉庫にへばりつくように住宅が建ち並び、人々が住んでいた。
私が住んでいた家の何件か隣には小さな町工場があって、そこでは甲高い金属音とオレンジ色の火花をまき散らして、金属溶接を行っていたのを記憶している。たしかその工場はクラスメートの家族が経営していた。
当時住んでいた家の目の前には当時の田辺製薬(現田辺三菱製薬)の工場があって、そこからは昼夜を問わず、なにがしかの音が漏れ聞こえていた。
しかも24時間。
まさにインダストリアルだ。
騒音の少ないコテコテの住宅地である杉並区に引っ越してきて、最初のうちは何となく落ち着かなかったものだ。「生産から切り離され消費のみを行う住宅地とは?」などということを大学1年の頃は結構真面目に考えたものだ。今となっては冷や汗ものである。
それはともかく。
戸田市の思い出と言えば、いの一番に上げたいのは「荒川」である。
荒川の土手は当時住んでいた家から歩いて5分くらいのところにあったから、気分転換したいときなぞ、よく行っていたし、ジョギングのときもよく行っていた。
荒川の向う側は東京都、ガスタンクがいくつか見えた。暇なとき、その土手をてくてくと一人歩いたり、ジョギングをしたりした。当時はまだ舗装されていないところが多かったのだが、今の今となっては土手の上も舗装されてきれいに整備されている筈だ。
誰が持ってくるのか知らないが、エロ本が落ちているときも多かった。今のようなセクシー女優の美しさなど微塵もない。所謂古式ゆかしいエロ本である。
エロ本はともかく、何かアナーキーな感じがした。共同体の周縁のような感じがしたのも事実だ。
ちなみに誰が持ってきたのか知らないが、荒川を跨ぐ戸田橋の橋桁のあたりには女子学生の制服や下着が落ちていたりもした。
本当にアナーキーな感じがした。自分としては、ちょっと無法地帯の香りがするところがたまらなく好きだった。
散歩しているときに叢から立ち上がる同級生のカップルを何組か目撃したりもした。一体彼らは叢に隠れて何をやっていたのだろう?と思う一方で、当時まだ彼女のいなかった自分は「女の子と付き合うってどんな感じだろう」と一人妄想を膨らませていたりもしたものだ。
今となっては懐かしい話ばかりだ。
荒川の水面はいつでも鉛色で黒光りしていて、お世辞にもそこで泳ごうなんて言えないような感じの汚さだった。
いつだか荒川土手にジョギングに行ったら、喪服姿人々が沢山いた。喪服姿の人に混じって警察の人もいた。不思議に思って野次馬の一人に聞いたら、「お葬式の当日に遺族の一人が荒川に身投げした」んだそうだ。身内の死にそれだけ深く絶望したということか。自分としてはまったくワケの分からないまま、しょうがないから再び走り出したのをよく覚えている。
土手に点々と散らばる喪服の人々の映像は今でも鮮明に頭の中に残っている。まるで「去年マリエンバードで」のワンシーンのようにも見えた。
Last Year at Marienbad (1961) | Trailer | New Release
とまあ、思いつくままダラダラ書いてみた。
気が向けば、戸田の思い出についてはまた書いてみたい(と言って、このブログで書いた試しがあっただろうか?)。