黒沢清がヴェネツィアで監督賞を取ったというから、これは久しぶりに劇場に見に行かなければならないということで、劇場に足を運んだのはいいが、色々と諸事情があって冒頭の15分くらいは見逃してしまった汗。
最初から見ていない人間がこの映画を語る資格があるのかどうかはちょっと置いておいて、ただ感じたこと、印象に残ったことをツラツラと書いてみたい。
すみません。
とは言え、その後をみた感じでは最初の15分が欠落していてもストーリー的には特に?となることはなかったので、助かった。
考えてみれば、黒沢清の映画を劇場で見るのは「ドッペルゲンガー」以来だから、随分と久しぶりだ。
それはともかく、「スパイの妻」である。
この映画はいつもの黒沢清映画よりもずっと見やすくなっている。
この手のサスペンス色のある黒沢清作品だとストーリーを追いにくくなっていて、何が何だか分からないということがままあるのだが、本作品についてはストーリー自体はあまりにも分かりやすいのだ。スゴく分かりやすい。
1940年、神戸で貿易会社を営む福原優作は、満州で国家機密に関わる衝撃的な光景を目にしてしまう。正義感に駆られた優作はその事実を世界に公表しようと決意するが、スパイとして疑われることになる。
彼の妻・聡子は“スパイの妻”と罵られようとも、愛する夫を信じて生きることを固く心に誓うが、2人はやがて時代の大きな荒波に飲み込まれていく。
(Wikipediaより引用)
という感じである。これ以上でも以下でもない。物語を駆動させるのは、福原優作(高橋一生)の訳の分からぬ、コスモポリタンとしての正義感とその妻聡子(蒼井優)が夫優作に向ける愛情。その2つが絡み合いながら物語を駆動させていく。
第二次世界大戦というものの結末を知っている我々からするとこの物語がどこに着地するのかということは概ね想像が着いてしまう。そのため、この夫婦がどうなっていくのかも概ね予想できてしまう。
物語は多くの黒沢清映画のように停滞するわけでもなく、疾走するわけでもなく、(要するに常軌を逸した時間感覚で進むということはないということ)、テレビドラマ的な時間感覚に慣れた観客にとっては比較的心地よい速度で進んでいく。物語は破綻も崩壊もせずに淡々と進み、そして概ね予想の範囲内で終わっていく。
自分としては観ながら「う〜ん、これじゃあ面白くないなあ」と思っていたのだが、終盤に来て、物語は崩壊しないままで、ある大きな美しい傷を負うのである。(言ってしまってもいいのだと思うが)それは蒼井優が叫ぶように言う「お見事です」という台詞だ。
この「お見事です」の一言を聞くために映画館に足を運んだのだと私は一瞬にして感じたのだ。この「お見事です」という言葉に黒沢清は重層的な意味を敢えて背負わせたのだ。
そう、この映画はこの「お見事です」という言葉がまさに主人公なのだ。
物語で展開される夫優作が計る策略に対する「お見事です」という意味もあれば、その策略に乗せられた自分に対して自虐的に評価する「お見事です」という意味もあれば、うがった見方をすれば映画の登場人物がその出演映画を製作した人々に対して「お見事です」と言っているようにも聞こえ、この一言は物語から大きく浮き上がり浮遊する。
物語を突き抜け浮遊する台詞は、物語を崩壊させずに際どいところでそれを成立させつつも、看過できない美しい傷を残していく。この塩梅が素晴らしい。
この物語を突き抜け浮遊する「お見事です」は、最後にもう一度繰り返される。
そのとき、「お見事です」は物語の結末と歴史的事実を等価物として並べ、暗喩として今の日本の現実を浮き上がらせることによって、現実に深く楔を打つ。
その楔がもたらすものは絶望だ。
歴史的必然、物語の結末、そして今の日本の現実、そのすべての物に対する絶望だ。
映画館を出る私達自身は自らの脳裏で「お見事です」という台詞を反芻するときに、自らの現実があまりにも脆い前提に立脚していることに気付かされる。そのあまりにも危うく儚く脆いバランスこそ「お見事です」ということなのだ。
映画の中で多様なコンテキストの中で多様な意味を持つ言葉の射程は遥かに長く、物語の中を飛び出して、現実に達し、物語と現実のその双方をあざ笑うかのように浮遊し、我々の脳裏に木霊する。
そうなのだ。この映画の主役は重層的に意味を発する「お見事です」という、その言葉そのものなのだった。