BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 日本語による……、もしくはその批評性

 今朝、通勤時に「電気グルーヴとかスチャダラパー」を聞いていてしみじみ思う。「日本語によるポピュラー音楽は『笑い』をベースにしたものしかあり得ない」ってことなのだ。
 現在の日本においては、背負うべき重い歴史があるわけでもない。そんなプレハブ的な構造を持った音楽において、シビアなメッセージを流したところで、何にもうまず、音楽自体の空虚さに恥ずかしくなってしまうばかりだ。だからこそ、「笑い」によって、日本におけるポピュラー音楽の空虚さ、そのルーツのなさに対して批評的にならなければならないような気がするのだ。
 巨大な貧富の差もなければ、背負うべき長い歴史も、差別も(これはある程度はあるような気もするが……アメリカほどではないような気が……する)、そんなシビアなものをルーツに持っていないのだから、その空虚な自分自身の出自に対しては「笑う」しかないのではないか。


 そう考えると、電気グルーヴは日本で一番過激で批評的な音楽を提示し続けており、その脱力さ加減が魅力的なスチャダラパーとのコラボは、私の中でははまりすぎていて、気分良すぎなんである。