ここ最近、もう二十年ぶりくらいで「On the road」を新訳で読み返していたのだが、やっと読み終わった。
この小説、はっきり言って、サル・パラダイスというふざけた名前の語り手とその友人ディーン・モリアーティがひたすらアメリカを東西に、南北に旅をするだけの話だ。本当にただそれだけ。40年代から50年代アメリカのルポルタージュみたいなもんだ。
小説的な仕掛けもあるようでないし、今現在のように読者に対する過剰サービスをよしとするような文学環境で生まれたものではないから、イマドキの人が読んだら退屈、なんだろうとも思う。でも、ところどころにアフォリズムめいたよいセンテンスが顔を覗かせるのだ。それがたまらなく美しく響く。例えば、
デンヴァーのメキシコ人だったらいいのに、せめて貧しい働きづめの日本人でもいい、と思い、いまのこんなに淋しい自分でさえなければ、なんでもいい、という気がしてきた。(中略)でも、ぼくは結局ぼくなのだ。サル・パラダイス。この菫のような闇のなかを、耐えられないくらい甘い夜のなかを淋しくふらふらさまよいながら、ハッピーでほんとうの心をもったエクスタシーを知っているアメリカの黒人たちと世界を交換したいと願っている男。(青山南訳)
ってなところ。若い頃(私などは唐突にそれは今でも発作のように現れる)には、人は、程度の差はあれ、アイデンティティクライシスに襲われることが、ままある。そのアイデンティティクライシスの中で、本気で人種を変えたいとまで思うケースっていったいぜんたいあるんだろうか?と。
ここでケルアックはいともたやすく、「自分が白人でなかったらよかったのに」と呟いてしまう。自我というものにそもそも他民族的な概念がまったく一滴も入っていない日本人からは出てこない思い、と言ってしまえばそれまでだが、このベクトルを「世界」という方向に向ければ、多民族国家アメリカに対するある種のアナロジーになるだろうし、アメリカの文化の構成要素におけるアメリカ系アフリカ人の貢献を示すモノという理解もできよう。
逆に、この台詞を、「自我」という方向に向けたときはどうなるだろうか。自分はもはや文化的なホモジニアスではいられないこと、この喜びと悲しみをものの見事に表現していると言うことができるのではないだろうか。
我々はもはや純血種ではいられない。文化的ハイブリッドとして生きていくしかなく、そこで得られる自我のようなものはたまらなく薄弱だ。何かにアディクトしない限り、その薄弱な自我はあっという間に、自らの「存在」を疑いだし、先に引用したサル・パラダイスのつぶやきのように、ふらふらと宙を彷徨い続けることになる。
自転車は高速で走っているときが一番安定している。これと同じだ。彼らは高速で車を転がし、roadを疾走することによってしか、自我を同定できないのだ。これはまさにケルアックが発見した、現代の人間の在り方なのだと思う。
退屈な記述の中に、そういったエキスが染み出るこの小説、やっぱり偉大だと思ったりする。抜粋があればいいのに、なんて不埒なことを考える。
あ。でもやっぱり英語で読んでおかないとまずいな(苦笑)
オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)
- 作者: ジャック・ケルアック,青山南
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2007/11/09
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