BearLog PART2

暇な中年の独り言です

「オッペンハイマー」 ううむ、稀に見る愚作と言えないか

www.oppenheimermovie.jp

 色々といわくつきの作品である。被爆国である日本への配慮が足りないとか、まあ色々。それはともかく、自分は「インセプション」「バットマン」「インターステラー」等々で、クリストファー・ノーランの力量を非常に高く評価し、彼の作品が大好きなので、そういった風評的なものに影響を受けることなく、普通にノーラン映画として楽しめるのではないかとちょっとだけ期待に胸を膨らませて行ったわけであるが、これが近来稀に見る愚作であったので、ちょっと寂しくなってしまった。

 あと作品の本質とは関係ないのであるが、オッペンハイマー役にキリアン・マーフィー、そうそうノーラン組といってもよい俳優だが、これがアップになる度にTalking Headsのデビッド・バーンに見えて仕方なくなってしまうのだ。しかもこの時代のスーツは比較的ゆったりめ。なのでどうしても「Stop making sense」を思い出してしまい、一人脳内で失笑するという。まあそういうところからして何となくの第一印象はよくはなかった。

 なぜ自分はこの映画は愚作と言い放つのか? 巨匠ノーラン作品だぜ。

 過去のノーラン作品って、彼のテーマみたいなものが映画的なギミックとともに無理なく展開されていたことを思い返してほしい。「バットマン」シリーズではあのダークヒーロー的な世界観を描写するためには暗い色調でのアクションシーンは不可欠だったし、「インセプション」「インターステラー」ではそれぞれの映画的世界観を表現するためにはノーラン独自の映画的ギミック、VFXがどうしても必要だった。

 しかし「オッペンハイマー」ではどうだろう? はっきり言って時折入る素粒子や核爆発のイメージ映像、軍靴での行進の足音を思わせる音、溶けていく人の姿、唐突に出てくるヌード等々、映画的なギミックを本当に彼は必要としたのだろうか? 自分の趣味の問題と言えばそれまでなのだが、一人の政治に翻弄された物理学者の人生を描くのに、はっきり言って映画的ギミックはあまり必要ないと考える。

 むしろ邪魔だ。俳優の身体性だけでしっかりとストーリーを形作れるはずだ。むしろ俳優の身体性にこそ、一人の人間を表現できるだけのものがあるはずなのだ。それなのに、観客に眠気を感じさせないようにしたいのかどうなのか、不必要に映画的ギミックを駆使する。その映画的ギミックについては当代一のノーランのことだから、そこだけをとれば「よくできている」のだが、でもそのギミックはテーマを激しく響かせるわけでもなく、オッペンハイマーの人物を描き出すわけでもなく、ひたすら上滑りする。

 一言で言ってしまえば、何をやりたいのか分からない。というか人物造形がなってないのだ。そこに映画的ギミックがてんこ盛りとくるから、散漫な印象を与えてしまうし、何を描きたいのかも分からない。

 強いて言うならば、物理学の理論やある種のコンセプト、巨大なイベント(戦争とかそういったものだ)などを描かせるとノーランは天下一品なのだが、本作のように「人間」そのものを描くことはできないということなのではないだろうか。

 はっきり言って自分としては稀に見る愚作。見る価値なし(しかし見る価値なし、ということは見ていないと判断できないことなのだから、なんか量子力学っぽくて面白いな)。

 とはいえ、東宝のシネマイレージ6本鑑賞のおかげでただで見れたからよしとするか。

 もっともただより高いものはないのだがw

 

追記

パーティーのシーンでコンガを叩くファインマンが現れる。「御冗談でしょう、ファインマンさん」に収録されている「下から見たロスアラモス」という章は当時ペイペイだったファインマンがロスアラモスのプロジェクトを語っているが、これがなかなか面白い。