BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 ひきこもりなお正月

 右ふくらはぎ痛を治すべく、ひたすら家で養生。要するに喰っちゃ寝、喰っちゃ寝を続けているわけだ。自転車の練習もそのせいで我慢しているわけだ。その甲斐あってか、かなり痛みは引いてきた。早く完治しないかなあと切に願う次第である。
 ということで、正月二日目も夫婦そろってひたすら引きこもりの生活を続けることになった。それはそれで日頃まとまってとれない読書の時間やDVD観賞の時間にあてられるし、ゆっくりモノを考えられるから、いいと言えばいいのだが、落ち着きのない私としてはちょっと物足りないのも事実である。
 久しぶりに「気狂いピエロ」をじっくりと観てみた。もう何十回目になるだろうか。初めて見たのは高校生の時。それ以来名画座にかかる度に見て、結局DVDも購入している。ただ今回見たとき、「嗚呼これは青春映画なのだなあ」とふと合点がいった。音の使い方やちょっと斬新な編集にばかり目がいっていた以前と比較すると、歳をくったせいか、この映画の「若さ」のことばかりが目に付く。アンナ・カリーナに振られた男のある種の感情がこの映画を作ったのも事実だろうし、微妙なところで既成の映画の文法を怖そうという企みもそうだし、結局はゴダールの「若さ」や無謀さが、役者やスタッフ、そして時代の何かと幸福な化学反応を起こしてできた、一瞬の奇跡の結晶なのだと思ったら、こういう幸福な作品は今後は一切世の中に出てこないのではないかという淋しい気分になってきた。
 ここでは観客とのコミュニケーションなんて、端から無視されている(ゴダールの作品はほとんど全部がそうだと思うのだが)。表現したいものだけを撮ったと言えよう。それが先に述べたように、色々な要素と幸福な化学反応を起こしたのだ。それだけの話だ。考えてもみて欲しい。誰が振られた女を主演女優にして映画を撮ろうと思うだろうか。作品は作品単体として、そこで切り取られた世界観だけを問題にすべきだとは思うが、でもその背景の事情を考えるとこの映画が持つ不思議な情念のようなものは、ある意味、簡単に理解できてしまう。
 しかし、今の世の中、そういう幸福な化学変化を阻む要因ばかりが目立ってきていると思う。作者の心情が社会情勢やその他の要因と幸福な化学変化を起こす事なんてないような気がする。一人の人間から出てきた表現物や、思想が世の中を変えていくということ、もしくは何らかの社会情勢と融合して大きな歴史的な流れにになるということ、こういったことは、作者本人が呈示するものが、人間の抱えているパラダイムを大きく変容させるだけのインパクトを持っている場合にのみ起こることだ。
 しかし、それは多分あり得ない。
 なぜなら答えは簡単。ある意味、人間の脳細胞から生み出される表現物が、ほぼすべて出尽くしており、それが作者が独力で絞り出したものであっても、必ず過去に同じようなことを試した先例があるということなのだ。歴史は「二巡目」に入っているということなのではないか。
 つまりは編集であり、リミックスであり、人間の想像力は限界に辿り着いているということなのだ。「気狂いピエロ」もある意味、「編集」というかリミックスの塊であることは事実だ。膨大な引用がそれだ。しかし、まだ、ゴダール個人の何らかの残滓のようなものが作品に入り込み、人に何らかのインパクトを与えることができた幸福な時代の産物だったと言えないだろうか。

 人類の想像力の限界に対する唯一の例外があるとすれば、ある種の科学的発見くらいであろうか。物理学のある種の領域やテクノロジーの一分野については、まだ人間のパラダイムを激変させる可能性がある、ような気がする。表現物はせいぜいそれを追いかけるのが関の山だろう。
 なんてことを考えつつ。

気狂いピエロ [DVD]

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