BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 リスク管理が全てをつまらなくする?

 先日読了した「新・都市論TOKYO」の中で非常に印象に残っている部分をそのまま引用してみる。

 果たして再開発事業として、ここに将来につながる採算性は存在するのか。それはなによりも大きな問題だと思います。(中略)そして、それらのリスクを背負った巨額な開発資金は、ノンリコースローンや不動産の証券化といった、バブル崩壊以降の都市開発で主流になった不動産金融テクノロジーで調達されている。かつて泰吉郎や稔が虎ノ門周辺でビルを増やしていった時の、森ビルが即所有者というシンプルな事業構造ではなく、権利が複雑に入り組んでいて、非常に分かり難くなっている。(中略)
(分かりにくいとどうなるのですか?)
 リスクが分散し、その結果都市再開発がどんどん「概念」と化してしまうことです。概念の街、ヴァーチャルシティになってしまうと、実際の生身の人間がそこでどう働き、遊び、生活するのかがみえなくなってしまいます。そこに悲劇的な事故が起こる素地もできます。それと事業採算性からいえば、用地買収、インフラ整備からビル建設、入居者の手配、商業施設の運営まで、私企業が一手に担う六本木ヒルズのような街作りは、本来ありえない。でも森稔はそれを作っちゃった。そんな無茶な街が何を担保しているのかというと、森ビルが倒産したら日本の経済全体に多大な影響が出るという恐怖感なんです。僕たちの前にある六本木ヒルズは恐怖感に支えられた概念といってもいい。

 当たり前の話といってしまえば、それまでなのだが、細分化したリスクが「現実感」を失わせ、「概念」化するというのはいいえて妙だ。不動産投資やコーポレートファイナンスを巡る金融テクノロジーは非常に進化したと思うし、ある意味、自分はそのジャンキーであるとも言える(苦笑) 要するにキャッシュフローが出るものはすべてそのリスクプロファイルに応じて細かく分割して、投資家に転売されていく。リスクの所在はもはや細分化されてしまうのだ。投資家はエクセルの表でしか、プロジェクトや会社を評価しなくなるし、それはすなわち、隈氏の言う「概念化」であり、手触り感をなくした投資は、何だか分からない化け物になってしまう、ということなのだろう。
 またリスクが分散化されると、最終的な「これしかないっ」というような狂気をはらんだ思い込み、情念はあっさり排除されるだろう。情念はキャッシュフローを生む「標準的なもの」に代替され、突出することのない平板なものになってしまう。
 ふと考えてみると、映画だってそうだ。
 一人の頭の中で簡潔できる芸術の方が、多分純粋性を維持できるはずだ。
 淋しい話ではある。

 

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)