BearLog PART2

暇な中年の独り言です

人を喰うという物語についての雑考(種の違いと分断について)

 人は地球上の食物連鎖の頂点に君臨していると言っていいだろう。

 人喰動物は散在しているものの「人類」という種全体で考えてみれば、人喰動物の存在自体は個別の人間の存在を脅かすほどの存在ではないだろう。

 しかし、である。

 しかし、ここ最近は人間が食物連鎖の頂点に位置しない世界観の漫画がヒットしているような気がしている。

 まず第一に、

 そして、言うまでもないことであるが、

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 そしてさらに「鬼滅の刃」だけではない。奇しくもジャンプでは同時期に、

 

 

  おいおい、待て。こんな話もあったろうとご指摘くださる方もいらっしゃるかもしれない。

  等々。

 さらにダメ押し、前述の四作品よりも年代はだいぶ前になるが、

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 思い起こせば、古くは「ジョジョ」においても人間は食物連鎖の頂点ではないという考え方が提起されてはいたが、私の認識では、それはあくまでも「人喰動物」と同じ類の話に近くて、人を喰う生物が独自の共同体を構築し、人類と敵対しているという状況が描かれているわけではない。もっとミクロな状況だ。

 そういう意味では、今回の考察の対象とするのは、

  1. 人間とは別の生物が人間を捕食すること。
  2. 人間を捕食する生物は独自の共同体を構築していること。
  3. 人間を捕食する生物の共同体は人類と敵対していること。

 以上、三つの条件を見たるものを考察の対象とする。

 よって、「進撃の巨人(以下『巨人』」「鬼滅の刃(以下『鬼滅』)」「約束のネバーランド(以下『ネバーランド』)の三作に絞られると考えている。 

「東京喰種」については、人間を喰う「喰種」は食物が人間というだけの人間の変種と考えた方がよく、「喰種」単独で共同体を構築していないこともあって、この考察では対象としない。

寄生獣」については、「寄生獣」が独自の共同体を構築することなく、社会システムに取り込まれる前に物語が終了したので、この考察では対象としないことにしたい。

 さはさりながら、「人喰」という話で始まったものの、物語が進んでいく過程で「人喰」だけでなく、人類と寄生獣の共生の可能性、そもそも人間存在とは何か?ところにまで射程が広がる、という多分作者自身も考えてもいなかったような哲学的に遠大な作品になったのは言わずもがな、である。これはこれで非常に興味深い物語である。

 

 さて、「巨人」「鬼滅」「ネバーランド」についてである。

 三作品全ては「アクション」「格闘」といったものに分類されるように思えるが、作品の世界観の中に上記三つの条件がビルトインされている。

 要するに「人喰」が一過性の事故といったものではなく、恒常的に繰り返され地球全体の生態系システムの中にビルトインされてしまっている状況、すなわち「人間が食物連鎖の頂点に君臨していない世界」を作品世界の重要な設定にしているというところで、今までには見られなかったことのように思えるのだ。

 これって、本当に人を食ったような話である笑

 なぜこれらの物語の中で、人間は「喰われ」なければならないのか?

 しかも、人間を喰うのは、別種の生物である。巨人であり、鬼であり、それは異なる種の生物である。 

 しかも、その物語は何故人々をこんなにも惹きつけているのだろうか?

 これは十分考察に値する問題のような気がする。

 ま、だからといって文弱の徒である私にその答えが導き出せるとはあまり思えないけれども、一応無い知恵を絞って考えてみたいのだ。

 

 考察の第一歩は、前述の「人間を喰うのは異なる種の生物である」という部分から始めてみたい。

 復讐じゃなくて復習から始めよう。

「巨人」で人間を喰うのは巨人である。 

「鬼滅」で人間を喰うのは鬼である(これについては元「人間」という考え方もあろうが、生物としてはあまりにスペックが異なるので、異なる種と言って差し支えなかろう)。

ネバーランド」で人間を喰うのは鬼である(「ネバーランド」では鬼にはいくつかの変種があるが、それについてはここでは考察しない。基本的には考察の範囲はあくまでも「知性鬼」に絞られる)。

 ここで考えてみなければならないのは、別の生物とは言うものの、どうやらそれぞれが何らかの形で人間にその起源を持っている、というところなのだ。

 人類派生ではあるものの、種としては別、と考えなければならない生物なんである。

 もう一度言おう。人類から派生した別の種の生物。しかも、その別の種の生物がある種の共同体を形成しており、その共同体は人類が営む共同体とは敵対しているのだ。しかし、その二種類の生物の間には微妙な繋がりがあると言えば、言えるのだ。

 言うまでもないことだが、「巨人」では巨人は人間由来である。「鬼滅」でも鬼は人間が変化して鬼に「なる」という設定だ。「ネバーランド」でも人間の捕食が知性鬼に対しては、非常に重要であることが述べられている。人間の捕食なくしては知性鬼は自己を保持できない。

 近い筈なのに、理解し合えないどころか、捕食者/被捕食者の関係になっているという矛盾に満ちた状況が、牽強付会かもしれないが、今現在の社会の暗喩になっていると考えられはしないか?

 そう。社会の分断、である。

 今や人類も一枚岩ではない。

 もともと一枚岩ではなかったのだが笑。

 あらゆるところに亀裂が入って、今にも粉々に崩壊しそうな我々の社会自体のメタファーになってはいないか? 我々が上記三作品を読むときに無意識に感じていることは、社会が色々な形で分断されていて、それぞれのクラスターの構成員たちはクラスターを越境してお互いに分かり合うこともなく、クラスター対クラスター、もしくはバトルロイヤルという、ひたすら不毛な戦いを繰り返している・・・そんな景色によく似てはいないだろうか?

 と、いうことに気付いたのである。

 ここまで書いて、ちょっと休憩。

(この稿続く)