BearLog PART2

暇な中年の独り言です

「落下の解剖学」 さすがに「解剖学」とはよくぞ名付けたものだ

gaga.ne.jp

 フランスの山奥に住む、妻、夫、息子(視覚障害を抱えている)、の三人家族。ある日、夫が家の窓から落ちて亡くなってしまう。死体の第一発見者は視覚障害を抱える息子。自殺なのか、妻による他殺なのか、その謎を巡って物語は進んでいく。

 物語が進んでいくにつれて、妻と夫の仲が普段からあまりしっくりきていなかったということが捜査の進展や法廷でのやりとりから徐々に分かってくる。このあたりの謎が謎を呼ぶような展開がまず面白い。とはいえ、それだけだったらスリリングな法廷劇というだけなのだが、この映画のすごいところ、面白いところはスリリングな法廷劇で示されていく三人の家族のあり様のほうだ。

 実は夫婦の間に何があったのか、夫は何を考えていたのか、妻は何を考えていたのか、ということは二重三重にはりめぐさらされた伏線等々で実態が微妙にわからないような演出になっている。

 そして、真実を唯一人知りえる立場にあった息子も視覚障害を抱えており、真実を知り得ていたかどうかが最終的には分からないという状況だ。要するに登場人物三者三様に見えている景色は決して交わることがなく、それぞれの登場人物はお互いに見ている景色を共有することもできない。

 これは是枝裕和監督の「怪物」と同じような状況を描いているということができる。「怪物」も意思疎通の困難性を丁寧に描いた映画だったのだが、この「落下の解剖学」も意思疎通の不可能性、他者を理解することの不可能性、といったことが丁寧に、一人一人のレベルで描かれる。

 世界を共有できないということは、自らが主体的にある特定の世界を「選択する」ということだ。そして自らが選び取った世界に対して責任を持つということだ。

 この物語では、世界を「選択」するのは視覚障害を抱えた息子だ。息子は父の世界、母の世界、それぞれを考え、そしてある世界を「選択」する。その世界がどのようなものかということをここで言うのは憚られるが、彼は世界を選択し、そして「大人」になっていくのだ。

 その清々しさがこの映画に明るい希望を与えている。

 世界は多様であり、それぞれの世界を共有することは不可能だという前提で、ひとつの世界を「選択」することの尊さとそこで生まれる希望があるということ。

 いろいろな意味で中心なく多極化し、かつ多様化していく現実に対して、数少ない希望を示している、しかも逆説的に示しているのが、この映画の最大の魅力なのだ。

 人と人の間の齟齬をまさに細かに「解剖」してくれていると言えよう。「解剖学」とはよくぞ名付けたものだと思う。