BearLog PART2

暇な中年の独り言です

黒沢清 かく語りき その二

 前回のポストはこちら。

 

kumaotaku.hatenablog.com

 次に取り上げたのが「Back to the Future」である。この中で恋人と語っていたマイケル・J・フォックスがスケードボード乗った後で通りすがりの車に掴まってすっと走り去っていくシーン(そのシーンは地味なので「JAWS」の冒頭のようにyoutubeにあがっているわけではなさそう)。

 実はこのシーンをロバート・ゼメキスはカットを割らずにワンショットで走り去るまでを収めている。黒沢清いわく「これを全部本人にやってもらい、かつカットを割らないということで、このマイケル・J・フォックスの若々しさやかっこよさが出てくる。多分撮るのは大変だったろう」とのこと。

 そして講義のシミュレーションの最後のパートはリュミエール兄弟の「工場の出口」。

youtu.be

 単に工場の出口から人だの何だのがたくさんわさわさ出てくるだけの動画と思いきや、「普通の工場ならばこんなに人は出てきませんよね。これだけの人を集めて一度に出すということはもう既に演出なんです」とのこと。

 確かに。

 普通の工場ではこんなに多種多様な人々がいくら就業時間だとはいえ、一度に出てくることはないだろう。そもそも「Black Rain」の悪名高い工場のシーンだって自転車がどーっと走ってくるのだって明らかに日本の現状とはかけ離れた演出に過ぎないし。

 黒澤氏曰く「非日常がこの1分間の中に存在している。真実を洗わずはずの映像の中に虚構が交じる。映画というものは現実と非現実を混ぜたものなのだ」ということ。そしてこの「工場の出口」が切り取ったフレーム。このフレームに映されていないところも含めてすべてが「存在」している。そこは映画の『外』になる。フレームの外側には生きている営みが垣間見れるわけで、その外側が物語性を生むのだ、という話。

 前にも書いたが、人間の視覚は視点の移動があまりにも滑らかで、自分の外側の事象についてはシームレスに、連続的にフォーカスエリア(フレームといってもいいだろう)が写っていく。よって、「外側」「内側」の区別がつかない。自分か、自分の外か、この二択であり、外側の外側とか、外側の内側とか、そういう面倒なものは存在しない。しかし映画のフレームは明確に「外側」と「内側」を分ける。撮っていないものはその非存在故に自ら主張をし、その主張とフレームの中の「内側」が物語を作るのだ、ということ。なるほどーと思ってしまった。

 この後自作を語るコーナーがある。いくつか自作について語ってくれた。

 まずは「打鐘」のワンシーン、「回路」のワンシーンが投映される。「打鐘」については自転車の練習をする男がコーナーを曲がりきれず段ボールの山に激突するシーン。それから「回路」は給水タンクだかガスタンクの上から人がいきなり飛び降りるところ。「回路」はこちらのティーザーの23秒くらいのところ。実はこの前に悲鳴を上げる女性がずっと歩いてきて携帯電話(スマホではない)を見て、というシーンが入っており、それらがほぼワンショットで収められている。

youtu.be

 これらについて黒沢氏は「殺戮等の衝撃的なシーンはワンカットで撮りたい」と思っているそう。それって最近の監視カメラ等に収められている「衝撃映像」が持つ独自のリアリティと迫力に近いものがあるのかな、なんて思ったりして。ハリウッド的に衝撃的なシーンをわかりやすくするためにアングルを変えてカットを割って撮るというのはひとつの有力な手法だろうが、この撮り方自体が既にひとつのテンプレート化し、視聴者に衝撃を与えることがすくなくなっているかもしれない、なんて思ってみたり。とはいえ、監視カメラ的なものもいずれは陳腐化していくのかもしれない。人間は空きやすい動物だから。

 そう言えば最近気に入った映画で「関心領域」のフレームが監視カメラそれであったということを下記にくどくど書いている。興味のある方はぜひご一読ください。

 

kumaotaku.hatenablog.com

 ということで今回はここで力尽きたので、ここまで。

 つづく。