BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 双務的、封建的、という概念から会社をとらえ直してみたら……

 先日の柄谷行人の講演に刺激され、「株式会社」というものを、再認識しようとして、色々と考えているところ、である。
 岩井克人が「会社はだれのものか」で分析していたように、「モノ」としての会社と「法人」としての会社という二面性においてとらえなおしていく、ということは非常に斬新な見方であって、私は非常に刺激を受けた。
 しかし、それは「会社」というものを一つの「有機体」として考えたとき、それが資本市場でどのように扱われているか、それをどのように扱っていくべきか、ということの理論的根拠にはなるだろうが、「会社」の内部の力関係、構造を描き出してはいない。私がここで企図していることは、会社の内部のミクロ的な構造を考察することによって、何か理論的なフレームワークが呈示できないか、ということである。
 そこで、冒頭に戻るわけだ。先日のエントリで、柄谷が言う「中間勢力」というものが、民主主義にとってある意味必要なものだ、ということ。これと同じように、会社の中をミクロ的に考えていく場合でも、「資本家vs経営者vs従業員」という構図ではなく、ある種の「中間勢力」のような、資本の流れ(すなわち会社の所有形態)ではないところに、ある種の「会社の本質」があるのではないか、そしてそれを呈示することによって、会社自身のレゾンデートルを掘り下げることができないか、というのが、私の野望ではある(笑)

  • 資本家、会社、経営者、

 まず、会社というものをミクロ的な構造において分析する場合、「資本家vs経営者」という切り口から入ってみる。ここにおいては、岩井の緻密な論考のように、「モノ」「法人」という二面性から分析するといい。経営者は「フィディシュアリー」をもって、資本家が所有する「モノ」をお預かりして、成長させなければならないという義務を負う。余談だが、この「フィディシュアリー」というものは、日本においては、あまり重要な概念としてとらえられていないようだが、この「フィディシュアリー」ということは、ある意味資本市場における「信用」と同じように、そもそも会社なる仕組みを有効に機能させるためには、一番重要なものであると言っても過言ではない。日本において「内部統制の構築」というようなことはJ-Sox法の強制適用が近付くにつれて、声高に叫ばれるようになってきたが、実は「フィディシュアリー」が十分にある経営者しか、世の中に存在しないのであれば、はっきり言ってこんなことしなくてもよいわけで、「フィディシュアリー」のない経営者がのさばるからこそ、逆にその経営者を監視するために「内部統制」を導入しなければならなくなるわけであり、しかもその導入のコストは最終的には株主が捻出することになる。
 日本において「コンプライアンス」という言葉が声高に叫ばれてはいるが、本質的には「フィディシュアリー」の方が「コンプライアンス」よりも先にくるべき、ものであろう。
 それはともかく、経営者はフィディシュアリーをもって、資本家(株主)からお預かりした「モノ」としての会社を成長させる、という「双務的」な委任契約において機能している。通常の法律的な立て付けでは、「会社と経営者が委任契約を締結する」という格好になってはいるが、事実上、経営者は株主総会において選任されるものなので、「株主の代理としての会社と経営者の委任契約」という形になっていると考えられる。
 ここが一つの結束点になる。

  • 経営者、会社、従業員

 そして、もう一つ。経営者は自己に与えられた権限で、会社のコストを用いて、従業員を雇い入れる。ここでは「経営者の代理としての会社と従業員の『雇用契約』」が締結されることになる。歴史的に考えていくと、従業員(労働者)は、資本家・経営者から不当に搾取されてきたので、ここは微妙に双務契約ではなくなっており、従業員側に不利がないよう国家権力が微妙なかたちで介入をする格好になっている。これは従業員が自らの労働力を提供することによって、その対価として会社から貨幣を得る、という「労働力」というやや特殊な財を交換するという状況が、国家権力の明確な介入を許している。
 誤解のないように言っておくが、そういう意味では、すべての商取引については参加者がそのルールに従うようにということで、会社と経営者の委任契約にしても、株主の会社の所有にしても、全ての活動に関しては明らかに国家権力の微妙な介入が入るようになっているが、これはあくまでも契約の当事者を保護するというよりは、資本市場や商品取引というシステムを保護するためのものであって、その結果として契約の当事者が保護されるようになっている。契約当事者の「個体」に対して直接権力が介入してくるのは、私の乏しい知見で考える限り、この「雇用」の部分だけであるように思える。それはすなわち、「労働力」という特殊な財の売買契約であるからに他ならない。
 しかしながら、ここ最近、会社の価値の源泉が、「生産設備の独占的所有」ということから、「知的付加価値の創造」というところに移ってくるに従って、会社と従業員の雇用契約についても、以前のように「強い会社」と「弱い従業員」という図式が、一部では通用しなくなってきているのもまた事実であろう。一部のサービス業(金融やIT等)では、会社の価値の源泉は、明らかに一部従業員の「頭脳労働」に依拠したものとなってきており、「時間をベースにした労働力」を提供することを前提にした、従来型の「雇用契約」を全面的に見直さなければならなくなってきている可能性がある。頭脳労働は提供される時間や場所については、まったく関係ないものだからだ。従来の「時間」「場所」で従業員への労働力の提供を求める雇用契約の範囲を逸脱していく可能性が高い。

  • 二面的な構造

 今までの述べてきたことを総括すると、
「株主(会社)vs経営者」の関係を定義する「委任契約」
「株主(経営者)vs従業員」の関係を定義する「雇用契約
 という二つの関係が会社の中には内包されていることになる。ここで岩井の議論を援用すると、どちらの契約も「法人」としての「会社」との契約、という形にはなっているが、ここにおいて、会社の二面性が入り込んでいることに注意しなければならない。「会社と経営者」の委任契約は、経営者が「モノ」としての会社を経営するときの契約になる。それに対して、「会社と従業員」の雇用契約については、従業員が「法人」としての会社に自らの労働力を提供する場合の契約ということになるわけで、経営者か従業員、そのどちらかが契約の当事者となることによって、「会社」というものは、自らが本質的に持っている「モノ」としての側面と「法人」としての側面、このうちのどちらか一つの側面のが強調される、ということに注意しなければならない。会社で働いている人々の契約については、それぞれ「モノ的側面」との契約なのか、「法人的側面」との契約なのか、というどちらかに色分けできるはずだ。
(以下続く)

会社はだれのものか

会社はだれのものか