BearLog PART2

暇な中年の独り言です

自我は何によって担保されているのか?

 まずは手短なところから考察してみる。ある特定の瞬間の自我とそこから一定時間経た瞬間の自我を考えてみたい。この二つの瞬間の自我が同一のものであるかどうか、ということだ。当たり前だろ?そんなん、という感じではあるが、ここではデカルトを気取って全てを疑うことから始めたい。

 だからと言って何が出てくるかはわかりきって入るが、自分の中では何事も厳密に考えるということがブームなんであるw ゲーデル読んでいるせいか。

 ということで、数学的な方法論をこれに接続してみたいwww

 集合Aと集合Bが等しいということは下記の式が成り立つことである。

 ∀x (x ∈ A ⇔ x ∈ B)

 ここまできて、「自我」という概念に接続して考えてみる。

 自我をEとする。t時点(面倒なので、tについては整数として考えよう)での自我をEtとした場合、Et=Et+nが成立するのかどうか。

 ただし、Etの要素を何にするのかが非常に難しいw

 そもそも細胞については1日のうちに何個かは死に何個かは生まれている。他に具体的な「行為」をいうものを考えたときに、t時点とt+1時点で全く同じ行為をしていることは、実生活を考えた場合、多分あり得ない。

 すなわち集合論的な観点から考えた場合、Eの要素が何であるかを厳密に定義しない限り、時系列で発生するであろうEを同一のものだと証明すること、すなわちEt=Et+nであることを証明するのは非常に難しいという当たり前のことが判ったに過ぎない。

 ということで、集合論からの接続は意味がない。

 とすれば、数論的なアプローチをとってみたらどうだろう? 例えばEを数列だとして考えてみる。

 E0, E1, E2, E3, E4………, En

 この数列の規則をかんがえるのか、それともEnの極限を考えるのか……。

 というか、そもそも数列のような単純なものでEを表現することはできないだろう。するとEをどう考えたらいいのか?

 例えば、Eを具体的行為、バイオデータ等々を全部ぶっこんだようなベクトルで考えた場合、そのベクトルが時系列でどう変化していくのか?と考えてみる。人間が有限の存在であるとすれば、その存在を記述する命題や数値は有限個な筈だ。だから、理屈上は、n次元のベクトルで考えることができる筈。

 そのベクトルが時系列でどう遷移するのか、その遷移のロジックが「自我」? それとも極限が「自我」?

 自我が自我であることを証明するのは難しい。結局デカルト的に「我思う、故に我あり」というトートロジーに持ち込むか、東洋的に「空」みたいにするのか……はっきり言ってどうでもいいことを考えているわけだ。

 ま、中年の戯言でございましたwww

 

再び間が空く

7月10日

前回行ったのが、7月3日だから、かれこれ1週間は間が空く。うだうだしないで、週末に行っておけば良かったなあと反省することしきり。ということで、インターバルに戻してみた。

  1. ハーフスクワット(40kg) 10×3(クローズ、ミッド、ワイドと脚の位置を3パターンで)
  2. ブルガリアンスクワット(10kg) 15×3
  3. カーフレイズ 20✕3
  4. クローズプルアップ(自重) 10×3
  5. ベントレッグレイズ(自重) 10×3

ここでサーキット3周おわり。

  1. チェストプレス(39kg) 10✕3
  2. ショルダープレス(20kg) 10×3

これでストレッチを入念にして終了。筋力自体は落ちた感じはないけれども、睡眠不足もこれあり、キレキレというかんじではなかった。

 

何が「リアル」を担保しているのか

 こんな記事に衝撃を受けた。

www.technologyreview.jp

 結局AIを使えばデジタルデータなんて、どうにでも加工できるし改竄できるということの、もっともインパクトのある事例だと思ったわけだ。

 まあ昔から質の悪いアイコラなんていっぱいあったけど、AIを用いて今までのアイコラとは全く異なった超絶凄いレベルで精緻にかつ簡便に「ヌード化」ができるようになると、そりゃあ本当に軽い気持ちでのイタズラを越え、人類の想像を遥かに越えたレベルでの悪用が可能になってしまう、、、のだろうなあ。

 で、思ったわけだ。

 デジタル化された画像データの「リアル」って何によって担保されるのだろうか?

 そんなことをツラツラ考えているうちに、「そう言えば『言葉』ってのは、画像のデジタル化が可能になる遥か昔から、現実に発生していることを伝えるべく利用されていたツールである。しかも簡単に複製可能であり(パロールとしての言語の複製は「芸」なのか「オーディオ」なのか、結構大変だが、文字としての複製は極めて大昔から行われているわけだ)、そしてそこでの「リアル」というのは、何が保証しているだろうか?と。

 言語での「リアル」の担保を考えることによって、「デジタル化された画像」の「リアル」の担保について何か示唆が得られないかと考えたわけである。

 世の中に流通している言語にはいくつかのメタデータが紐付いていると考えるのが妥当だろう。つまり、「誰が言っているのか」とか「メディアは何なのか」とか、まあそういったこと。

 本屋の小説コーナーにある本が述べていることはあくまでもフィクションを成立させる言葉であって、事実を伝える言葉ではないということは、多分それが装丁や書肆のどの棚にあるか、というメタメッセージによって共通の理解を得ることができる。新聞に書いてあることは多分真実?なんじゃないかな、的な。

 逆に言えば、言語は言語単体として存在するとき(それこそトイレの落書?)、そこで書かれるものごとが「リアル」なのか「リアルでない」のかを判断することはできないということなんだろう。

 ネット上にあるデジタルデータの信憑性をどう担保するかというテクノロジーブロックチェーンだというのは分かるが、ブロックチェーンが担保するのはあくまでもデータの出所とその取引履歴(で、いいんだよね?)だけであって、ブロックチェーンによって取引履歴が保証されているデータが、実際に「リアル」であるというところまでは担保されない。こういう取引履歴だったら、「リアル」なんじゃね?的な担保の仕方にとどまるような気がする。

 その意味では、ブロックチェーンも書肆の棚も、レベルとしてはあまり変わらないということになる。

 デジタルデータにおいて、本当に本当の「リアル」を担保するのは何なのだろう?

 この考察は続く(筈)