BearLog PART2

暇な中年の独り言です

中小企業の経営と哲学と……

 

 東浩紀の著作は結構読んでいる。ほぼほぼ全部読んでいるのではなかろうか。

 そんな彼の著作の中でもこれは異色中の異色の作である。

 というのも、これは彼が経営する「ゲンロン」の足跡をたどるものだからだ。要するに自分語り的な要素が非常に強いからだ。

 現在はベンチャーキャピタルに在籍しており、ベンチャーというか中小企業(実は私はこの「中小企業」という響きが嫌いではない)と死ぬほど格闘し、過去ITベンチャーの経営をし、起業もし……というキャリアを持つ身からすれば、「経営あるある」が羅列されているだけ、と言えばそれだけなのだが、本書は二つの点から鑑みて、非常に貴重な知見を与えてくれる良書なのだ。

 まず第一点。東浩紀は哲学者であり批評家なんだと思う。要するに哲学的な思考の鍛錬をたゆまずに行ってきた人である。その思考の刃は非常に鋭い。そして、本書ではその思考の刃が、ナント「自分自身」に向けられているのである! そして、鋭い思考の刃で自己を切り裂いた果に何が出てくるかと言うと、ごくごく普通の結論が出てくるのだ! そこに私は快哉を叫びたい衝動に駆られる。

 結局経営というものに王道はなく、地道な日々の積み重ねでしかない。飛び道具もなければ一発逆転の妙手好手もあるようで、ない。経営者はその一挙手一投足をもって経営をし、その一挙手一投足に手抜きは許されない。

 という、ごくごく当たり前の事実が、東浩紀ほどの人物の口から当たり前に出てきたことに本当に感動を覚えるわけだ。

 第二点。ここは分かりやすくするために本書から引用したい。

だからこそ、ぼくはゲンロンでもシラスでも、それがビジネスであることが大事だと思うのですね。商売とは要は商品と貨幣の交換です。それは悪いことではない。商売抜きの世界でこそ、むしろ「信者」と「アンチ」が分かれてしまう。ぼくは『観光客の哲学』で、コミュニティには、「村人」(友)でも「よそもの」(敵)でもない第三のカテゴリの人々が必要で、それが「観光客」なのだと主張しました。ぼくがいま言っているのは、それと同じことです。観光客を集めるためには商売をするしかありません。

 この前段で、東氏は「オンラインサロン」と「ゲンロン」のビジネスを明確に峻別している。「オンライサロン」の顧客は「信者」であり教祖に対してお布施を払う、「ゲンロン」の顧客は「ゲンロン」の商品を購入する観客なのだ、と。

 ここで注目すべきは、

「村人」(友)でも「よそもの」(敵)でもない第三のカテゴリの人々が必要

 というところである。彼曰くこれこそが「観光客」ということになる。観光客は面白くなければ金を落とさない。だからこそゲンロンはクオリティにこだわるのだ、と。そして第三のカテゴリたる観光客は貨幣の交換を通してのみ現れるのだ。

 よって、彼はゲンロンを「株式会社」として経営することにこだわる。商業は人々をつなぐ。思想信条に関わらず、「商売」は人々の間をつなぐのだ。これは究極のコミュニケーションと言えるわけで、この部分を大事にすることなくして、社会変革も思想の実現もあり得ないのだと。

 東氏が鍛え抜いた思考の刃で自己を切り裂いた果に出てきたのは、商売は大事なのだ、それは人々を「友/敵」に分けることなくつないでいくことができるから、ということ。

 そしてこうも述べている。

啓蒙は「ファクトを伝える」こととはまったく異なる作業です。ひとはいくら情報を与えても、見たいものしか見ようとしません。その前提のうえで、彼らの「見たいもの」そのものをどう変えるか。それが啓蒙なのです。それは知識の伝達というよりも欲望の変形です。日本の知識人はこの意味での啓蒙を忘れています。啓蒙というのは、ほんとうは観客をつくる作業です。それはおれの趣味じゃないから、と第一印象で弾いていたひとを、こっちの見かたや考えかたに搦め手で粘り強く引きずり込んでいくような作業です。それは、人々を信者とアンチに分けていてはけっしてできません。

 

 観客を作ること、要するにきっちり商売をすることこそが「啓蒙」につながるのだ、と。知的なものに飢えながらも、自らの飢えに気付かない人々に対して、「君はこういうコンテンツを消費したいはずだよね〜」と絶えず囁き続けること。これこそが啓蒙であり、欲望の変形である、と。素晴らしい知識人批判になっている。同類でつるんでいても仕方ないんだよ!と東氏は拳を振り上げているのである

 ここ最近喧しく言われる「diversity」であるが、この「観光客」の文脈から理解した方がよっぽど分かりやすい。マイノリティを何%雇用する、という話ではなく、「観光客」をひっぱってくる、ということの方が効果があるということだ。副業解禁も「観光客」の文脈で従来型雇用に接続していく必要を強く感じる。要するに商売はあらゆる境界を取っ払うのだ

 これ、素晴らしい認識だと思う。

 

 東氏はゲンロンを経営することによって自らの哲学を世に問うている。

 これをパラフレーズするならば、我々は商売をすることによって自らの哲学や世界観を世に問うことができるのだ、ということ。

 とはいえ、日々の仕事にそれだけの意義を感じている人々はいったいどれだけいるものか? ま、自分に関して言えば、自分の仕事は投資なので、投資というのは比較的自分の世界観を仕事に載せやすい。

 昔、銀行員の頃に米国債の自己ポジショントレーディング業務に従事していたとき、尊敬する先輩がこう言った。

「トレーダーってのは自分のポジションで世界観を表現する仕事なんだよ」

 おーかっこいい。と思った。その言葉を聞いて以降、トレーディングのポジションだけでなく、仕事や一挙手一投足に自分の思想を塗り込めたいと思った。

 当然の如く上手にはできてないけど、心がけてはいるつもりだ。

 そして、この「ゲンロン戦記」を読んだ時、まざまざとその言葉が頭に蘇ってきたのだった。

 頑張れ東浩紀!と遠くからエールを送りたい気分である。自分のオフィスも五反田なんでご近所ですし、何かあったら相談にのりますよw(と、余計なお世話)。

人を喰うという物語についての雑考(種の違いと分断について)

 人は地球上の食物連鎖の頂点に君臨していると言っていいだろう。

 人喰動物は散在しているものの「人類」という種全体で考えてみれば、人喰動物の存在自体は個別の人間の存在を脅かすほどの存在ではないだろう。

 しかし、である。

 しかし、ここ最近は人間が食物連鎖の頂点に位置しない世界観の漫画がヒットしているような気がしている。

 まず第一に、

 そして、言うまでもないことであるが、

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 そしてさらに「鬼滅の刃」だけではない。奇しくもジャンプでは同時期に、

 

 

  おいおい、待て。こんな話もあったろうとご指摘くださる方もいらっしゃるかもしれない。

  等々。

 さらにダメ押し、前述の四作品よりも年代はだいぶ前になるが、

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 思い起こせば、古くは「ジョジョ」においても人間は食物連鎖の頂点ではないという考え方が提起されてはいたが、私の認識では、それはあくまでも「人喰動物」と同じ類の話に近くて、人を喰う生物が独自の共同体を構築し、人類と敵対しているという状況が描かれているわけではない。もっとミクロな状況だ。

 そういう意味では、今回の考察の対象とするのは、

  1. 人間とは別の生物が人間を捕食すること。
  2. 人間を捕食する生物は独自の共同体を構築していること。
  3. 人間を捕食する生物の共同体は人類と敵対していること。

 以上、三つの条件を見たるものを考察の対象とする。

 よって、「進撃の巨人(以下『巨人』」「鬼滅の刃(以下『鬼滅』)」「約束のネバーランド(以下『ネバーランド』)の三作に絞られると考えている。 

「東京喰種」については、人間を喰う「喰種」は食物が人間というだけの人間の変種と考えた方がよく、「喰種」単独で共同体を構築していないこともあって、この考察では対象としない。

寄生獣」については、「寄生獣」が独自の共同体を構築することなく、社会システムに取り込まれる前に物語が終了したので、この考察では対象としないことにしたい。

 さはさりながら、「人喰」という話で始まったものの、物語が進んでいく過程で「人喰」だけでなく、人類と寄生獣の共生の可能性、そもそも人間存在とは何か?ところにまで射程が広がる、という多分作者自身も考えてもいなかったような哲学的に遠大な作品になったのは言わずもがな、である。これはこれで非常に興味深い物語である。

 

 さて、「巨人」「鬼滅」「ネバーランド」についてである。

 三作品全ては「アクション」「格闘」といったものに分類されるように思えるが、作品の世界観の中に上記三つの条件がビルトインされている。

 要するに「人喰」が一過性の事故といったものではなく、恒常的に繰り返され地球全体の生態系システムの中にビルトインされてしまっている状況、すなわち「人間が食物連鎖の頂点に君臨していない世界」を作品世界の重要な設定にしているというところで、今までには見られなかったことのように思えるのだ。

 これって、本当に人を食ったような話である笑

 なぜこれらの物語の中で、人間は「喰われ」なければならないのか?

 しかも、人間を喰うのは、別種の生物である。巨人であり、鬼であり、それは異なる種の生物である。 

 しかも、その物語は何故人々をこんなにも惹きつけているのだろうか?

 これは十分考察に値する問題のような気がする。

 ま、だからといって文弱の徒である私にその答えが導き出せるとはあまり思えないけれども、一応無い知恵を絞って考えてみたいのだ。

 

 考察の第一歩は、前述の「人間を喰うのは異なる種の生物である」という部分から始めてみたい。

 復讐じゃなくて復習から始めよう。

「巨人」で人間を喰うのは巨人である。 

「鬼滅」で人間を喰うのは鬼である(これについては元「人間」という考え方もあろうが、生物としてはあまりにスペックが異なるので、異なる種と言って差し支えなかろう)。

ネバーランド」で人間を喰うのは鬼である(「ネバーランド」では鬼にはいくつかの変種があるが、それについてはここでは考察しない。基本的には考察の範囲はあくまでも「知性鬼」に絞られる)。

 ここで考えてみなければならないのは、別の生物とは言うものの、どうやらそれぞれが何らかの形で人間にその起源を持っている、というところなのだ。

 人類派生ではあるものの、種としては別、と考えなければならない生物なんである。

 もう一度言おう。人類から派生した別の種の生物。しかも、その別の種の生物がある種の共同体を形成しており、その共同体は人類が営む共同体とは敵対しているのだ。しかし、その二種類の生物の間には微妙な繋がりがあると言えば、言えるのだ。

 言うまでもないことだが、「巨人」では巨人は人間由来である。「鬼滅」でも鬼は人間が変化して鬼に「なる」という設定だ。「ネバーランド」でも人間の捕食が知性鬼に対しては、非常に重要であることが述べられている。人間の捕食なくしては知性鬼は自己を保持できない。

 近い筈なのに、理解し合えないどころか、捕食者/被捕食者の関係になっているという矛盾に満ちた状況が、牽強付会かもしれないが、今現在の社会の暗喩になっていると考えられはしないか?

 そう。社会の分断、である。

 今や人類も一枚岩ではない。

 もともと一枚岩ではなかったのだが笑。

 あらゆるところに亀裂が入って、今にも粉々に崩壊しそうな我々の社会自体のメタファーになってはいないか? 我々が上記三作品を読むときに無意識に感じていることは、社会が色々な形で分断されていて、それぞれのクラスターの構成員たちはクラスターを越境してお互いに分かり合うこともなく、クラスター対クラスター、もしくはバトルロイヤルという、ひたすら不毛な戦いを繰り返している・・・そんな景色によく似てはいないだろうか?

 と、いうことに気付いたのである。

 ここまで書いて、ちょっと休憩。

(この稿続く)

 

 

重層的に意味を発する言葉が(ネタバレを気にするなら読まないほうがいいかも)


『スパイの妻<劇場版>』90秒予告編

 

 黒沢清ヴェネツィアで監督賞を取ったというから、これは久しぶりに劇場に見に行かなければならないということで、劇場に足を運んだのはいいが、色々と諸事情があって冒頭の15分くらいは見逃してしまった汗。

 最初から見ていない人間がこの映画を語る資格があるのかどうかはちょっと置いておいて、ただ感じたこと、印象に残ったことをツラツラと書いてみたい。

 すみません。

 とは言え、その後をみた感じでは最初の15分が欠落していてもストーリー的には特に?となることはなかったので、助かった。

 考えてみれば、黒沢清の映画を劇場で見るのは「ドッペルゲンガー」以来だから、随分と久しぶりだ。

 

ドッペルゲンガー [DVD]

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  • 発売日: 2004/04/23
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  それはともかく、「スパイの妻」である。

 この映画はいつもの黒沢清映画よりもずっと見やすくなっている。

 この手のサスペンス色のある黒沢清作品だとストーリーを追いにくくなっていて、何が何だか分からないということがままあるのだが、本作品についてはストーリー自体はあまりにも分かりやすいのだ。スゴく分かりやすい。

1940年神戸で貿易会社を営む福原優作は、満州で国家機密に関わる衝撃的な光景を目にしてしまう。正義感に駆られた優作はその事実を世界に公表しようと決意するが、スパイとして疑われることになる。

彼の妻・聡子は“スパイの妻”と罵られようとも、愛する夫を信じて生きることを固く心に誓うが、2人はやがて時代の大きな荒波に飲み込まれていく。

Wikipediaより引用)

 という感じである。これ以上でも以下でもない。物語を駆動させるのは、福原優作(高橋一生)の訳の分からぬ、コスモポリタンとしての正義感とその妻聡子(蒼井優)が夫優作に向ける愛情。その2つが絡み合いながら物語を駆動させていく。

 第二次世界大戦というものの結末を知っている我々からするとこの物語がどこに着地するのかということは概ね想像が着いてしまう。そのため、この夫婦がどうなっていくのかも概ね予想できてしまう。

 物語は多くの黒沢清映画のように停滞するわけでもなく、疾走するわけでもなく、(要するに常軌を逸した時間感覚で進むということはないということ)、テレビドラマ的な時間感覚に慣れた観客にとっては比較的心地よい速度で進んでいく。物語は破綻も崩壊もせずに淡々と進み、そして概ね予想の範囲内で終わっていく。

 自分としては観ながら「う〜ん、これじゃあ面白くないなあ」と思っていたのだが、終盤に来て、物語は崩壊しないままで、ある大きな美しい傷を負うのである。(言ってしまってもいいのだと思うが)それは蒼井優が叫ぶように言う「お見事です」という台詞だ。

 この「お見事です」の一言を聞くために映画館に足を運んだのだと私は一瞬にして感じたのだ。この「お見事です」という言葉に黒沢清は重層的な意味を敢えて背負わせたのだ。

 そう、この映画はこの「お見事です」という言葉がまさに主人公なのだ。

 物語で展開される夫優作が計る策略に対する「お見事です」という意味もあれば、その策略に乗せられた自分に対して自虐的に評価する「お見事です」という意味もあれば、うがった見方をすれば映画の登場人物がその出演映画を製作した人々に対して「お見事です」と言っているようにも聞こえ、この一言は物語から大きく浮き上がり浮遊する。

 物語を突き抜け浮遊する台詞は、物語を崩壊させずに際どいところでそれを成立させつつも、看過できない美しい傷を残していく。この塩梅が素晴らしい。

 この物語を突き抜け浮遊する「お見事です」は、最後にもう一度繰り返される。

 そのとき、「お見事です」は物語の結末と歴史的事実を等価物として並べ、暗喩として今の日本の現実を浮き上がらせることによって、現実に深く楔を打つ。

 その楔がもたらすものは絶望だ。

 歴史的必然、物語の結末、そして今の日本の現実、そのすべての物に対する絶望だ。

 映画館を出る私達自身は自らの脳裏で「お見事です」という台詞を反芻するときに、自らの現実があまりにも脆い前提に立脚していることに気付かされる。そのあまりにも危うく儚く脆いバランスこそ「お見事です」ということなのだ。

 映画の中で多様なコンテキストの中で多様な意味を持つ言葉の射程は遥かに長く、物語の中を飛び出して、現実に達し、物語と現実のその双方をあざ笑うかのように浮遊し、我々の脳裏に木霊する。

 そうなのだ。この映画の主役は重層的に意味を発する「お見事です」という、その言葉そのものなのだった。