BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 お奨めシリーズ 第二回

Live at the Five Spot 1
 クマおたくはあまりジャズについては詳しくはない。詳しくはないものの、お気に入りのジャズ・ミュージシャンは何人かいる。ジョン・コルトレーンセロニアス・モンクマイルス・デイビス、そしてこのエリック・ドルフィーである。敢えて共通点を上げるとすれば、全員が鬼籍に入っていることだろう。
 タイトルの通り、これはファイブスポットでのライブを収録したもので、この他に「Volume 2」「Volume 3」「メモリアル・アルバム」「ヒア&ゼア」の3枚のシリーズがあるのだが、クマおたくはこの「Volume 1」が出色の出来だと思っている。
 とにかく、全編を通して、高いレベルの、とはいえ心地よい緊張感で統一されている。この高レベルの緊張感に浸りたくて、私は年に何度かこのアルバムをプレーヤーにセットすることになる。
 この中でピアノを弾いているのは、「レフト・アローン」の作者として有名なマル・ウォルドロンなのだが、どういうわけかピアノのチューニングがずれている。クラブ側の機材の問題なんだとは思うのだけれど、恐ろしいことに、ズレたチューニングのピアノを弾いているにもかかわらず、すさまじい緊張感と音の密度の中で、特に違和感なく聴けてしまう。嘘だと思うなら試しに聴いてみて欲しい。
 高いレベルの緊張感が、ピアノのチューニングがどうこういうレベルではない域へ、彼らを連れていってしまったのではないかとクマおたくは勝手に解釈している。それはミュージシャンとしては至福のひとときだったのだろうと思う。こういう緊張感って、ジャズに特有のものだ。一部の例外を除くが、インプロビゼーションに重きを置いていないロックやクラシックではこのような緊張感はあまり出てこない。ロックやクラシックでは、しっかりと計画され構成されたものを名人芸で再現するという方法が主流だ。話はやや横道にそれるが、近年、特にロックでは打ち込みが増加することによって、音楽が持つ独特の身体性がどんどん希薄になっている。しかし、音楽はどういうわけだか、身体性とのつながりをどこかで何とか保持しようとするらしく、打ち込みはダンスフロアと密接につながっている。楽器の身体性が欠落していくかわりにダンスフロアの身体性を獲得したというのは面白い現象だと思う。
 しかし、このアルバムではどうだろう。鍛え抜かれた楽器による身体性が自在に空間の中を跳ね回っている。その自由奔放さは、なかなか今の音楽には見られないもののように思える。鍛え抜かれたアスリートたちがせめぎあうプロ・スポーツの世界に近いと言えば近いのかもしれない。
 緊張感とはいうものの、それぞれの楽器が対立しあっているわけでもない。ものすごく密接に関連し合いながら、それでいて、お互いのパートが火花を散らすようなせめぎあいの中でゆっくりと時間が経過していくのだ。

 ロナウジーニョやデコ、シャビが繰り出すバルセロナの流麗なパス回しを見ているような気さえしてくるから不思議なものだ。