BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 お奨めシリーズ 第一回

 以前書いた物の再利用なのだが、かなりまじめに書いたので捨てておくのも惜しい気がして、こちらで再会、じゃなくて再開。

 第一回目は、こちら。

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年デジタル録音)

 独断と偏見の「お奨め」、第1回で取り上げるのは、誰でも知っているグレン・グールドゴールドベルグ変奏曲。グールドの最晩年に演奏されたこの曲は私のもっとも好きな曲である。この世の中でどれか一つだけCDを選べと言われたら、多分これを迷うことなく選ぶだろう。それくらい好きなのである。
 このゴールドベルグ変奏曲は、よく知られているように、カイザーリンク伯爵の不眠症を癒すために作曲された作品で、バッハの弟子であったゴットリープ・ゴールドベルグに演奏させたことによって、この名称がついた。まあ、ライナーノーツで諸井誠が言っているように、グールドの録音では眠気なぞ吹っ飛んでしまうのだが。
 誰もが語り尽くしたこの曲について、言葉をひねり出そうとすることは無謀なことかもしれない。しかし蛮勇をふるって敢えて言葉を掴み出そう。
 私が唯一語りたいのは、異様なまでにはっきりと聞こえる内声部の音のことだ。まるで二人か三人で弾いているかのように、内声部がくっきりと、しかも流れるように聞こえてくる。それはテクニックの問題ではない。それはまさにグールドの人となりであり、グールドの哲学が凝縮された形で表されている部分なのである。
 グールドは近代的自我に異議を唱えていたのだ。グールドの演奏の中では自我はひとつではない。それは複数ある。近代の病である「自我」がいくつにも分裂し、それぞれが自由奔放に飛び跳ね、踊り、宙を漂っている。
 近代になって初めて「自我」は一つのものとして同定されてしまった。それはそもそも無理のあることだったのだ。我々は決して一つではない。自我はあらかじめ「ある」ものではなく、人と人のコミュニケーションの「間に浮かぶ」ものだ。上司と接するときの自分、家族と接するときの自分、恋人と接するときの自分、それぞれに違う。それはひとつひとつ独立したものだ。近代以降、それを無理矢理、「自我」の名のもとにひとつに押し込めてきた。
 しかし、グールドの演奏を聴くと、匂い立つ豊かな内声部が同定されている「自我」を解き放ち、あらゆるしがらみから解き放ってくれる。その瞬間、私は自由になる。私は私でなくなる。私はひとつではない。私はすでに「私たち」なのだ。それは完全な自由だ。そこは澄み切っている。心地よい静寂がある。

 私はその至高の瞬間を味わうために、グールドの演奏を何度でも聴く。