BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 お奨めシリーズ 第三回

 ということで、懲りずにまた……今回は「One Hot Minute」であります。

One Hot Minute
 95年に出たレッチリの6枚目のアルバムである。
 これは誰が文句を言おうと、クマおたくのロック史上、5本の指に入る名盤なのである。
 まあ、このあたりのことはエッセイの「さらば、レッチリ」にも書いたし、この前の回の「Blood sugar sex magik」でも書いたのでちょっとシツコイかもしれないのだが、敢えて書かせていただきます。クマおたくはそれくらい、このアルバムが気に入っているのだ。
 彼らはフリーのベースを触媒にして、ロック的なものとファンク的なものを結びつけ、ミクスチャーの新たな様式を「Blood Sugar Sex Magik」で作り上げた。その様式はかなり完璧に近いもので、バンドの中の色々な不幸な出来事などがあったにせよ、このアルバムを完成させるのには2年もの時間が必要だったことは、彼らの創造の苦しみを物語っている。私自身、次の彼らのステップがどの方向に行くのかをモノスゴイ期待をして待っていたわけだが、このアルバムが出たときは心底、驚いた。そっちへ行ったか!という感じである。
 彼らは自らが生み出した「ミクスチャー」という様式に再び「ロック」というフィルターを通して再び提示してきたのだ。これによって、彼ら自身が「ロック」という軸で微分され、解体され、その上にもっともっと力強く美しい音楽が花開いたのだ。
 一番象徴的な曲は「Coffee shop」という曲だ。力強いリズムの上に極めてロック的なアンソニーのボーカルがのり、そしてデイブ・ナヴァロのギタープレイが入る。ジョン・フルシアンテのギターとは桁違いに分厚く装飾的な音。この曲は、リフからリズムの取り方から、何かレッド・ツェッペリンを彷彿とさせる。結果論なのだが、彼らが黒人音楽への愛をミクスチャーで表現し、その先の表現を求めて、自らの音楽に再びロックのフォルターをかぶせたとき、そこで起こった化学変化……そう、そこでは90年代版のレッド・ツェッペリンが完成したのだ。それは象徴的なことだ。ツェッペリンの様式が黒人音楽の解釈としては極めて普遍的なものだということ。ただし、ここには一つ条件がつく。バンド内に天才的なリズムキーパーがいるってこと。言うまでもない。ツェッペリンではボンゾだし、レッチリのフリー。このような強靱なリズムの上に成り立つロックは、ちょっと暴力的だが、すべてツェッペリン的なものになってしまうと言えなくもない。
 リズムだけではない。このアルバム発表後、ほどなくしてバンドを去ったデイブ・ナヴァロのギタープレイもここでは重要だ。彼らがロック的なフィルターをかけるときには、どうしても彼のサイケデリックでデコラティブなギターが必要だったのだ。今までのレッチリがコンクリート打ちっ放し風だったのに対し、このアルバムではデイブのギターのおかげで、コンクリート打ちっ放しの壁にサイケデリックなペイントが施された感じさえ受ける。それが強靱なリズムをさらに引き立てているのだ。
 このアルバムは所謂正当派レッチリファンからはなぜか評判が悪い。それというのも彼らが持っていたナイーブな力強さとかファンク色がかなり薄れているからだ。それは彼ら自身が意識的に自らに「ロック」というフィルターをかけたために起こったことだ。それをファンはあまり受け入れなかった。そして、このアルバムも商業的には不発に終わってしまう。安藤忠雄風のコンクリート打ちっ放しが好きなのだ、正当派レッチリファンは……。しかし、私はサイケなペインティングが施された「One hot minute」のレッチリをことのほか愛している。ロックによって一皮剥けたミクスチャー……それは一般性は持ち得ないかもしれないが、その先鋭的な試みに対して、私は賛辞を惜しまない。だから、このアルバムは、私にとって忘れ得ぬ名盤なのだ。
 このアルバムは明らかに彼らにとっては前進だったのだ。しかし、今や、彼ら自身、その大きな一歩を否定し、コンクリート打ちっ放しの作風に戻ってしまった。それはそれでよい。しかし、彼らはそこまでのバンドになってしまった。
 その意味では、このアルバムは、バンドが持っている創造性に限りがあるとすれば、その最後の一滴が大爆発を起こした特異点だということができる。彼らはこれい以上のアルバムを作っていないし、多分作らないだろう。