BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 反転 闇社会の守護神と呼ばれて

反転―闇社会の守護神と呼ばれて

反転―闇社会の守護神と呼ばれて

 一言で言ってしまうと、「面白かった」で終わってしまう。
 前半は、平戸の極貧の中から、田中氏が検察官になり、「敏腕」と呼ばれ大活躍するものの、上層部の不可解な捜査姿勢に憤って、検察を辞するところまで。後半は、バブル紳士たちとの蜜月から、バブル崩壊によるバブル紳士たちの凋落と、自身の逮捕、起訴、有罪判決まで、という構成。著者は自ら経験したことを、包み隠さず述べているように見える。
 著者は本書の中で、日本のエスタブリッシュメントアンダーグラウンドが、結果的にお互いに手を握り合い、今の「権力」を維持しているのだという、暗部のようなものをくっきりと描き出してしまっている。
 私たちも、国民として、本能的にそういう事情を理解はしているが、これだけ生々しい言葉で、実名をベースに語られたテキストがあっただろうか。「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」もそうだが、検察というところが、こうして書物にかかれることによって、実態が明らかになるにつけ、検察という存在自体が、現在の国家権力においてどういう役割を果たしているのか、ということを否応なく考えざるを得ない。
 経済犯罪などでいうと、違法と合法の線引きについては、時の権力者によって恣意的に行われていることは、佐藤氏の著作により白日の下に晒されているわけであり、「司法」「行政」「立法」という「三権分立」をとり、「国民主権」と名乗っている、日本の「民主主義」がいかに脆い基盤に立ち、その脆さを覆い隠すために、アンダーグラウンドの力をも必要としているということ、その当たり前の事実に驚愕する、自分の甘ちゃんぶりに、さらに驚く。
 国家権力に翻弄されながらも、国家権力を容認し、その庇護の下に生きている自分としては、対岸の火事として見ていたい、しかし事情が事情になったら、自分も追い詰められるかもしれない……という漠然とした恐怖の中、麻布十番祭りのお化け屋敷のような納涼感を味わいながら、「面白く」読んだ。
 権力を行使する側と行使される側への「反転」という文脈は、佐藤優氏も同じと言えよう。権力を告発する人々が、むしろ権力を行使する側の人たちだったということに、我々は自覚的にならなければならない。権力は、国家護持のための必要悪であり、必要悪であるということを最も明確に認識しているのは、まさに権力を執行する人々だ、ということなのだ。このウロボロスのような連環こそが、権力の本質的な部分であるような気がする。
 権力を、ある意味必要なものだという困難な立脚点から否定していくという茨の道に挑む彼らだか、私は彼らの武運を祈るばかりだ。
 田中氏はこの先、ここまで吐露して、どこへ行くつもりなのだろう? 気になるところだ。