BearLog PART2

暇な中年の独り言です

音楽だけが聖域というわけではないという当たり前のこと

親のための新しい音楽の教科書

親のための新しい音楽の教科書

 ふとAmazonで見つけて思わず購入してしまった本なのだが、これは言葉は悪いが、本当に拾い物だった。面白かったし、興味深い記述があちころに出てくる。しかも聞き語り文なので、つらつらと読めてしまう。だからといって、そのツルツルと読めてしまう文章をツルツルと流していては、この本の素晴らしいところを見誤ってしまうような気もする。
 ある意味、私が長い事抱いている音楽に対する先入観をいい意味で覆してくれたようにも思えるから、多分、この本は良書なのだと思っているのだが。
 私自身は子供の頃に特別な音楽教育をしっかりと受けて来た訳ではない。小学校と中学校については学校の授業だけだし、高校については美術選択であり、音楽の授業などは一時間も受けていない。きちんとした音楽教育を受け始めたのは、娘と一緒に2013年1月から始めたヴァイオリンのみということだから、結局1年7ヶ月という短期間でしかない。
 では、それ以外、まったく音楽に触れていなかったかというとそういうわけではない。音楽はロックからクラシック、はては津軽三味線、各種ワールドミュージックに至るまで、多分普通の人よりは数多く聴いて来た方だと思うし、高校と大学、そして社会人になっても、ほんのちょこっとだけバンドをやっていたりもした。でも基本的には独学だから、きちんとした音楽教育を受けている人を見るといつも羨ましく思って来たものだ。
 絶対音感がある、それはすごい!
 シャコンヌが弾ける! すごいすごいすごすぎる〜。
 スコアのアナリーゼができる! うるうる尊敬〜。
 というかんじで、とにかく専門的に音楽を語れる人のことがうらやましくて仕方がなかった。でも自分には才能がないし(これはヴァイオリンをやってみてしみじみそう思う)、もはややるタイミングを逃したなあと思っていたのだが、娘がよいきっかけを作ってくれたのだった。
 
 それはともかく。しかし、である。

 本書ではそういった「音楽」に対する先入観がすべて、時代の「ナラティブ」に過ぎないのだとバサっと一刀両断してしまうわけである。私の理解が正しければ、この「ナラティブ」というのは「パラダイム」という言葉に言い換えてもいいのではないかと思う。要するに、我々が普通に音楽に抱いている感覚や意識というものは、煎じ詰めるとある特定の時代の「パラダイム」に支配された「音楽観」にすぎないということなのだ。
 基本的には、昔からフーコーなぞをかじっていた自分としては、そういうことは自分から気付いても良さそうなものだが、本書を読むまで、自分の中では「音楽」だけは聖域だったのだ。だから、時代のパラダイムに支配された音楽観であろうとなかろうと、音楽(特に西洋音楽なんだな、これが)に関することはすべて無条件に「スバラシイ」という風に脊髄反射してしまっていたわけだ。
 その自分の狭量な思考に一石を投じてくれたのが、本書なのである。音楽が楽しい? そんなこと誰がいった? 音楽が情操教育にいいなんて、本当? 幼稚園で子供が大声で歌うのって、それが大人からみた「子供らしさ」だからじゃないの? 音楽教育にだって権力は過去介入してきた、等々。優しい言葉でつらつらと書かれていることは、私にとってはどれも目鱗だった。
 それというのも、自分が音楽を専門的に学んだことがないという負い目のようなものから音楽を聖域視するあまり、音楽に対して批評的な視点を持ち得なかったということなんじゃなかろうか、と自分で総括しているわけだ。

 引き続き、自分はある種のコンプレックスから音楽を聖域視し続けるだろうけれども、でもその聖域視する中でも多少なりとも批評的な視点を持って接して行く方が(特に娘への教育という観点でみれば)、いいのではないかというような気になっている。この点に自覚的かどうかで、音楽との接触が実り多いか少ないかということが分かれてくると思う訳だ。パラダイムに縛られていることに自覚的になりながらも、音楽の本質的な部分を味わうということ(まあ本質って何?という難しい問いはここでは小休止させて下さい)。

 本の内容についてはほとんど触れていないが、それはともかく。自分に撮っては非常に有益な本であった。著者の仕事をもうちょっと追いかけてみようと思っている次第であります。