BearLog PART2

暇な中年の独り言です

過去と現在と未来が交錯した瞬間

 今日ちょっと色々と野暮用あって、地元の道をとぼとぼと歩いていた。

 5月というのに大変に暑かった。

 Tシャツ1枚しか着ていないのに背中にはじっとりと汗をかくほどだった。ただ歩いているだけ、なのにである。

 昔はそのあたりをよく散歩したものだった。

 娘が生まれる前は妻と2人で、娘が生まれてからは娘、妻、私の3人で。場合によっては、娘と私の2人で。

 そして場合によっては、年老いた父や母の付き添いで。

 最近はみんながみんながそれぞれの事情を抱えているせいで、みんなで一緒に散歩、なんていうことはめっきりなくなってしまった。

 そう言えば、このあたり、娘が2歳頃によく通ったなとふと思った。

 娘は幼稚園に上がる前に、このあたりのモンテッソーリ教育の塾へ週に何回か通っていたのだ。ここはその塾へ通う道だった。主に妻が送迎を担当していたが、私もたまには自転車の後ろに娘を乗せて、モンテッソーリの塾まで娘を送り、そして迎えに行ったものだった。

 そのことを唐突に思い出したら、何とも切ない感情の不意打ちを食らった。

 その切なさは本当に唐突で、その唐突さ故の衝撃に我ながらびっくりしてしまったほどだった。

 その衝撃の後に、私は年甲斐もなく泣きたくなった。

 この道には私の家族の過去がある。そう思ったのだ。

 そして、この道には私の家族の未来はないのかもしれない。そうも思ったのだ。

 特定の場所に過去の思い出が紐付いていることは別に珍しいことではない。人間の記憶なんて、色々な感覚の連合体のようなものだと思うので、特定の場所の景色が思い出、記憶を呼び覚ますことなんて、誰にでもある。

 その記憶や思い出が楽しいもののこともあれば、悲しいもののこともある。幸いにして、今日の私の不意打ちは楽しい、かつ喜ばしいものだった。それでも過ぎ去ってしまったことに対しての、なんと言えばいいのだろう、多分それは「感傷」という二文字がぴったりと当てはまる気がする。当たり前か(笑)。

 私の場合、ここには過去が詰まっているが、この過去が詰まった場所は多分ではあるが、私の家族に対しては何の未来も約束していないのだろうということも、当たり前のことだが、自分にとってはそれなりに衝撃があった。この場所は決して未来には連なっていないのだ。

 私はこの場所に佇み、過去を見て、そして現在の自分を省みながらも自分の未来を見ることはできなかった。過去は感傷に塗れ、未来は不可知なままだし、不可知の未来に対して、現在の私は恐れおののく。そういう風に過去と未来と現在が重なり合っているのだった。

 この場所で2歳の頃の娘が唐突にワキで登場すれば、それは立派な能楽になるような気がした(笑)。

 

 妾はこのあたりに住む 未就学児にて候。父母の趣味でモンテッソーリ教育を受けるべく、自転車に乗せられ、塾へ向かうところにて候。

 

 こんな妄想をしていたときに、不安に塗れた現在、この不安を拭うには娘と共有する時間を一瞬たりとも無駄にしないことなのだ、と唐突に思った。

 私の中で、過去と現在と未来が交錯した一瞬だった。

 

 我 娘を愛するにて候。

 

 とでも言えばいいのか。

 2歳の娘が私に微笑み続けている。