BearLog PART2

暇な中年の独り言です

ベートーヴェンに「友」はいたのか?

 今年は楽聖ベートーヴェンの生誕250年ということで、お目出度いのか、お目出度くないのかよくわからないけれど、ベートーヴェンの名前を聞く機会はいつもより少し増えているような気がする。ということで(唐突なんだが)、ベートーヴェン交響曲第9番について思うところを書いてみたいと思っております笑

 ま、大した話は出来ませんが。

 


ベートーヴェン交響曲第9番「合唱」 カラヤン1970年ライヴ

 

 交響曲第9番 合唱付き。

 カラヤンの音源を貼っておいたのにはあまり深い意味はないけれど。自分自身が馴染んでいるのがカラヤンだ、くらいの軽い感じである。

 この曲がもつ音楽的な意味合い等々についてはここでどうのこうの言えないし、言う気もない。

 私がここで考えていきたいのは、「歓喜の歌」の冒頭に発せられる「友よ」という言葉についてだ。「友」は「友」だろうと言われてしまうとそれまでなのだが、ここ最近、私はこの「友」についてしばしば下手の考えを巡らせている。

 ここはシラーではなく、ベートーヴェン自身の筆になるところだ。友よ、こんな音ではない、と高らかに歌われるこの歌詞。ここで歌われる「友」って何だろう?と最近思うわけだ。

 友という言葉は「非・友」(要は「敵」だな。こんな用語は勿論ないけれど)という存在があって、初めて成立する概念だ。だから、ベートーヴェンが「友」と言った時、それは無意識のうちに「友ではない何か」を彼の心のなかでは想定していた筈だ。

 友というのは、カール・シュミットに例をとるわけではないが、「友でないもの(カール・シュミットでは「敵」と明確に定義されていた筈)」がいないと存在しないものだ。うちの能の先生がよく言うのだが、「世の中は陰陽でできている」わけで。

 つまりは、陰があるから陽が有り、陽があるから陰もある。一つだけ単独で存在し得るものというのはほとんどないのではないだろうか。

 ベートーヴェンが「友」と言った時、彼の心のなかではどういう人が「友」でないと定義されていたのだろうか? 一応「歓喜の歌」の歌詞にはこう書かれている。

そうだ、地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

Wikipediaより引用)

 ここはシラーの筆になるところだろうけれども、「地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言え」ない者は友ではないと明確に定義されている。何やら分かりくいけど、

「心を分かち合う魂」というのは何だろう?

 そもそも「魂」という言葉、あっちこっちで使われる言葉だけど明確に定義されているような気がしないし、そもそも「魂」というものが存在するかどうかさえ、かなりあやふやだ。理解できない場合は細分化してパートごとに考えていくというのはロジカル・シンキングの基本だろう。ということで、一回理解不能な「魂」を於いて起きて、

「心を分かち合う」って何だろう?

 の方から考えてみるか、と。

 こっちの方がまだ少しは分かりやすい。「心を分かち合う」ということは多分、他人に対する「共感」なんだと思えばよいのではないだろうか。ということは、「心を分かち合う魂」をパラフレーズしてみると、

 他人に共感する魂

 と言えるのではないか。

 要するに私なりに解釈してみんとすれば、ベートヴェンが「友」として高らかに歌い上げているのは、「他人に共感できる」と言えるものだけが、この友としてこの輪に入ることができるということなのではないか。

 しかし、ここで前に述べた「陰陽」を考えてみて欲しい。「他人に共感できる人」がいるということは「他人に共感しない人」がいる、ということだ。要するに全人類が友となることはないということを断言しているように自分には思える。

 しかし、このシラーの筆による詩には「友」と別の概念がいきなりあまりにも無防備に突っ込まれてる。それは、

兄弟

 なんである。

時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる

Wikipediaより引用)

 いきなり唐突に「兄弟」という概念が突っ込まれる。しかしこの「兄弟」という言葉については、「友」のようにこの詩中での詳細は説明はまったくないのだ。だとすると、常識の範疇で「兄弟」という言葉を理解しなければならない。

 で、ここまで書いてきて、ふと思った。

おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(以上3行はベートーヴェン作詞)

Wikipediaより引用)

 さらに後半ではこのようにまくし立てる。

天の壮麗な配置の中を
星々が駆け巡るように楽しげに
兄弟よ、自らの道を進め
英雄が勝利を目指すように喜ばしく

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
聖なる父が住みたもうはず

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界中の者どもよ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう

Wikipediaより引用)

 「友」かと思えば「兄弟」でもなくなり、最後には「諸人」への呼びかけとなって、この詩は完結するのだ。

 自分としては分かった気がしてきた。

 この詩は弁証法なのだ。

 「友/敵」が「兄弟」にアウフヘーベンされ、そしてそれは最後には「諸人」にアウフヘーベンされる。これはまさにヘーゲル哲学の「国家」と著しい相似をなしているように思えてきたぞ笑

 よって、最初のベートーヴェンの筆による「友よ」の呼びかけは「敵」をも含めた呼びかけになっており、それはその後の「兄弟」「諸人」へと続く弁証法の第一歩になっているという構造なのではなかろうか。

 と、どうでもいいことをグダグダ書いて、最後に思った。

 ベートーヴェンに友はいたのだろうか?

 心を分かち合う友はいたのだろうか?

 多分いなかったのではなかろうか、と思う。

 ベートーヴェンの音楽って、個人的な印象に過ぎないのであるが、一言で言うと暑苦しいところがあって、例えてみればもらってもあんまりうれしくないラブレターのようなところがある気がする。

 そんな暑苦しいラブレター的な曲を大量に作るということは、やっぱり「友」はいなかったと考えるのが妥当だろう。だから、「敵」もいなかった。社会生活的に「敵」と見えた人々については、ベートーヴェンの脳裏には「存在しない」という位置付けになっていたんだろうと思う。

 だからこそ、最後の最後に来て、「友を持つことは敵を持つことだ」となって、「それがアウフヘーベンされて、血を分けたのような兄弟になり、最後の最後は全人類に至るのだ!」と狂気のように叫ぶのではなかろうか。

 友がいないから、そのような熱狂的な咆哮をせざるを得なかったのではないだろうか。

 そう、ベートーヴェンには「友」はいなかったのだ。そして第9において、友敵の弁証法が宇宙的なスケールに到達するわけなのだ。

 このぶっ飛び方がベートーヴェンなのだ、という気がする。

 当たり前の話だが、コヤツ。只者ではないのだ。

 ところで、トランプにも友はいないんだろうな。ふと思った。しかし考えてみれば、彼には敵がたくさんいる。ということは「陰陽」で考えると、友もたくさんいるんだろう。

 ということは、彼の友ってどういう人々なんだろう?とちょっと思ったりする。