BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 不思議な感覚

 今日は午前中は色々とばたばた。
 午後からはほぼ一日外出。戻ってきたのは6時半過ぎ。暑い中外出しただけあって、実のあるミーティングができたのではないかと思われる。ま、評価は後に下されることだろう。
 日曜日に、友人と一緒に多摩川サイクリングロードを走ったときに、「お前のBlog(このBearLogのことだ)を読むのがけっこう楽しみだ」という発言を聞いた。私の耳が相当おかしくなければ確かにそう聞こえたはずなんである。
 これは非常にむず痒いようなくすぐったいような不思議な感覚なんである。
 そもそも、このBlogは世の中に何かを訴えかけようとか、自分自身の考えを他人に伝えようとして書いているものではない。つまりは、書いてる私(実物を知っている方はともかくとして)、ネット上の仮想人格である「クマおたく」が「クマおたく」のために書いている駄文であって、そもそも他者の視線を意識したものではないのだ。私がここで気を付けていることはただ一つ。
「書き手としての自分が気持ちいいかどうか」
 ということだけ。
 そもそも私は若かりし頃、とあるパソ通の文学系BBSで某田口ランディを並び称された(苦笑)時期もあり(恥ずかし)、かつ群像新人文学賞(いつの年か忘れた)の二次だか三次選考まで残ったこともあり(爆爆爆)、ほんの一瞬であるが、ライターをしていたこともこれあり(ナンチャッテだけど)、読み手のことを考えないで書いた文章がどれだけ酷くなるかということは身をもって知っているつもりではある。自分が楽しむだけの文章は他人にはまったく読めたものではないケースが多い。
 だからこそ、結果として、このBearLogというアウトプットが私の友人を楽しませているのであれば、それは望外の喜びではあるが、意図的に生まれたものではないのだ。ただの偶然の産物と言えるわけだ。
 そのギャップ。その偶然。
 それがなんともむず痒い不思議な感覚なんである。
 極めてパーソナルなものが友人連中を楽しませてしまう。(私のBlogは違うにしても)極めてパーソナルな見解が社会に影響を与える……。昔からよく語られている「インターネットによる『個』のエンパワーメント」ってこと? そもそも通信手段だけで個人がエンパワーメントするなんて、人間の歴史を見ていればそんなのフィクションに過ぎないってことはすぐに分かるはずだ。何らかの力になるとはいえ、人間の権力や政治の本質というのは「個」の無数の情報発信によって変わるものではない。パリのカフェだって何だってすべては同じ機能を果たしていたじゃないか? 支配・被支配の関係はコミュニケーションの問題だけでは片付かないと思うが、どうだろう。
 しかし、このBlog、わけわからんと自分でも思う。仕事柄コンフィデンシャルなことを扱っていることが多いので、このBlogで仕事の話をする気は毛頭ないし、ましてや未熟者である私ことクマおたくが人に対して自らの哲学や思想を語るなんて僭越なこともできない。そもそも書くためにネタ探したことなんか一度もない。私が敬愛するバロウズはいいことを言う。
「作家は現在を記録する機械だ」
 すべては自分の内面にこそあるのだ。その内面は現実を何よりも鋭敏に映し出す。ちょっとトーマス・マンっぽいかな(苦笑

 私にできるのは、キーボードを叩いている指を心地よく動かすことだけ。文章というものを通して、自らが楽しむこと。これだけなんである。


 これでいいのだ。