BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 なぜ私は菊地成孔にはまっているのか?

 今日漠然と考えていて、一つ思い当たった。
 菊地の「東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編」に「サキソフォンというのはノイズメーカーなのだ。ちゃんとした音とノイズを自由に行き来することができる唯一の楽器」という表現があった。これが一つのキーなのだ。つまり、「秩序」と「カオス」を簡単に越境できるということ。
 まあ、これが「ディストーションギター」に対する考察に一つの重要な切り口を提供してくれることは明らかだが、それは又の機会ということで。
 で、菊地である。
 結局、ミュージシャンとしての顔と文筆家としての顔の双方。その見事なスイッチングに痺れているということなのだ。音楽家がすぐれて理論家でありながら、その一方で、その場その場の演奏においては卓越した運動神経を使って用意ならざる跳躍を繰り返していかなければならない。しかし、文筆を行うということは、運動神経を用いた耐えざる跳躍ということではなく、神経をすり減らすような構築的な作業である。その双方にはそれなりの壁がある。

 その壁をいとも簡単に跳躍して越境していくこと、それが非常に羨ましいのであり、その越境力の残像に憧れているから……ということになるかな。

 構築と疾走。
 有る意味、現代的だな。