BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 新たなる権力

 昨日読了した「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)」。この本を読み終わってから、自分の中での漠然とした「違和感」が明確な形として、体内で具現化してしまったのを感じた。要するに、ネットというのは、もはや「リアル」世界と同様に、ある種の「権力」の存在を前提に成り立ちつつあるのだという現状認識が、自分にとって驚くほど不快であるという事実に目を開かされたということなのだ。
 私たちが、このネットなる空間にこうやって書き散らした言葉は、実は霧散せずに、どっかに物理的に存在するサーバーの中に蓄えられている。実は、このBlogのようなもの、私が自分自身の「外部脳」として、「備忘録」的に書きため始めたものなのであるが、それを公開しているにすぎないのだが、しかし、その無邪気な企みについても、例えばこのポストの下に出ているであろうAdsenseのネットワークによって、広告主にPRのスペースを与えており、このBlogのようなものを読んで下さる方も目にしてしまうわけである。
 別に大したことではない。ごく当たり前の風景である。
 しかし、私はどういうわけか、そういう状況を今となっては違和感を感じているのだ。ネット黎明期においては、既存のメディアのような既成の権力、もしくは国家権力に対して、個人が明確に「No」という二文字を突きつけることができ、かつ「草の根」的なパワーが全市民に対して開かれ、市民はそのパワーを有効活用し、生活者主権の新しい形の民主主義を展開できる第一歩を踏み出すことができると漠然と考えていた。しかし、今はどういうわけかその興奮は萎み、私の体内には「違和感」だけが残っている。
 その違和感は不定形のものだったのだが、今や明確な形を持ってきた。
 つまりだ。「ネット」は新たな力を獲得し、新しい「権力」になってしまったということなのだ。それは既存の守旧的な「権力」にとって変わるだけで、「権力」が「権力」のままであることには変わりないという現実。「権力」に対して、「No」と言い、つまり「反権力」というものになったわけではなく、新しい「権力」として代替されていくだけの存在だということが、自分の中で明確になったということなのだと、自分が思い始めたということなのだ。
 新しい優れたモノ、サービスは、やはり何らかの「権力」を持つようになる。それがすぐれたものであればあるほど、「権力」に猛烈なスピードで近付いていく。仕方ない。優れたモノ、サービスは、利潤を生むが故に、花がミツバチを惹きつけるように、利潤の前に平伏す人間を惹きつける。
 私は、自らの性分として、いかなる「権力」についても「反」という立場でいたいと思う、かなり歪んだパンキッシュな人種である。そういう人間からすると、「ネット」という新しい「権力」に易々と与していくわけにはいかないのだ。
 ピンチョンは一時期、「ラッダイト運動」へのシンパシーを口にしていた。
 今の私もそんな気分だ。
 しかしどうだろう? 私の自我はここで複雑にねじれてしまう。
 私はいつもGmailをプライベートで愛用している。
 そして、このBlogのようなものを、「はてな」で書き散らしている。どっかにはまだ、「無料」に惹かれて(ただほど高いものはないとはよく言ったものだ)開設したインチキホームページが残っている筈だ。
 それらは客観的には、すべて「私自身」の残滓である。私自身の残滓はあちらこちらのサーバーにこびりついたまま離れないでいる。Googleで私の名前を検索すれば、多分、夥しい数のプレスリリースの責任者としての私を発見できるだろう。そして「クマおたく」で検索すれば、多分(というか確実に)このBlogのようなものを発見できるだろう。
 それはまるで、私が戸籍にのっていて、住民票にものっていて、パスポートも持っていて、かつ所有しているマンションが登記されているかのようだ。そういった形で個人の存在を「同定」するという機能は、まさに「権力」そのものではなかったか?
 そのネットの「権力」によって「同定」される「私自身」というのはいったいぜんたい「誰」なのか?
 私は誰なのだろうか?
 私は生きているのだろうか?
 サーバーの中にあるデジタル化された言説は「私」なのだろうか?
 私はこの荒涼とした風景の中で立ち止まる。
 まあ待て。事態はそんなに悪くはないさ。
 楽観的な私が無理矢理そう言おうとしている。
 悲観的な私はそこで目を覆い脳死してしまう。