BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 牧師先生

 今日も早めにオフィスを失礼させて頂いて、結婚式に向けてのカウンセリングのため、妻と一緒に牧師先生のところへお伺いする。
 はっきり言って、私はあまりキリスト教には詳しくない。私のキリスト教に関する知識は、原始キリスト教については辻邦生の「背教者ユリアヌス 3 (辻邦生歴史小説集成 第6巻)」から得たものだし、それ以外のところでは、おもしろがって旧約聖書新約聖書岩波文庫で買ってきてぱらぱら読んだことくらい。勿論、内容についてはほとんど覚えていない(苦笑)
 それはそうと、この牧師先生が意外に面白い方だった。もともとはお医者さんで病理学が専門なのだそうだ。医療関係といえば、私の母も元看護士なのでそれなりに縁(「縁」というのは仏教用語だった(笑))があるということで。そういえば西欧的な思考に「縁」という概念はあるのかないのか?ちょっと気になってきた。
 話は脱線するが、「縁」というのは本当に不思議な言葉である。人間というものは自らの意志を持つところ、その意志の流れにそって、人や物が集まってくることが多い。意志という媒介項を通してつながる……多分仏教的な考え方とは違うのだと思うのだけれども……ということかな、などと思ったりする。
 結婚式はレディメイド的に行うのかと思ったら、式次第から何からかなり手作り感覚で、オーダーメイドもオーダーメイドなかんじであった。音楽から入場方法から何から、ある程度自由度があるらしい。儀式というのは、その様式美をもって、参加者の共同体におけるつながり方を認識する行為なのだと定義できるような気がしていたのだが、この日の牧師先生のお話ではそうではないらしい。なるほど、おもしろい。
 式次第だけでなく、色々とお話をしてみたりした。私が過去離婚歴があること等々を率直にお話したら、「最初の結婚でよかったことはありますか?」と聞かれたので、「妻には悪いですが、確かに良かったこともありました」と答えた。ならよかった、と牧師先生は笑って言う。
 要するに、結婚に対してよい思い出を持っている人であれば、次の結婚をさらによいものにしようとがんばれる、そうではなくて、悪い思い出しかない場合は、次の結婚に対してポジティブになれなくて、離婚癖がつきやすいのだそうだ。
 あと、目を開かせられたのは、「結婚は『別れ』において完成する」という牧師先生のお言葉である。だからこそ、日々後悔しないように喜びを積み上げるのだとのこと。私は信心深い方ではないのだが、なるほどなあと思った。
 何事も終わりが来る。終わりを意識しながら、日々を過ごすことによって、毎日ポジティブに生きていくことができる。
 そりゃそうだ。
 人生にも、結婚にも、そうサッカーの試合にも終わりはくる。

 だからこそ、終わりははじまり。
 薬師丸ひろ子も言っている。
「♪さよならは別れの言葉じゃなくて(出典セーラー服と機関銃)」