BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 昭和?

 6時にはオフィスを出て、早帰り。
 家の近所の大金という蕎麦屋で天ざるを夕食にした。帰宅してから、たけしなんかが出演している「89年」の特集番組を見る。
 この「89年」というのは、昭和天皇崩御した年でもあり、東西ベルリンの壁が崩壊した年でもあり、私事ではあるが、私が社会人になった年でもあり、日経平均が史上最高値をつけた年でもあり、番組のトーンとしては、89年に起こった出来事が何らかの形で今現在に影響を与えているのだということらしいのだが、やっていることは、まあどうだろう、昭和を生きた人物評伝の範疇を出るものではなく、何が今につながっているのかが明示的には分からない構成になっていたところにはやや不満を覚えるが、娯楽要素の強い人物評伝として客観的に見るなら、まあ暇つぶしにはいいかなという程度だ。
 それはそうなのだが、今、「三丁目の夕日」じゃないが、「みんなが希望を持てた」というトーンで、昭和をモテ囃し過ぎなのではないかと思ったりする。
 今の時代だって、希望を持っている人は持っているし、持っていない人は「昭和」に生きていても持っていなかったと思うのだ。
 個人的に思うのだが、「希望」という言葉を核にして、昭和という時代を回顧的に褒め称えるというスタンスを取るのであれば、国民が抱くであろう、その「希望」という漠然としたものを、厳密に定義しなければならないと議論がスタートしないし、回顧主義的な思想は往々にして将来に対しては何の示唆も生まない。
 で、要するに、国民的「希望」って何なのさ?ということだ。もし暴力的に単純化して、「将来何かいいこと起こりそうだ」ということを希望と言うならば、その場合は希望の時間的射程を考えなければならない。その将来というものが、明日なのか、明後日なのか、五十年後なのか……。
 って考えていくと、よく分からないわけだ。よく分からないままに「昭和はなぁ」と遠い目をして回顧主義的に語り始めることは時間の無駄と思われる。多分、単に現実逃避以外の何者でもない。
 人間は過去に戻ることはできないので、今これから何をするかが問題なのだと思うわけだ。