先週日曜日に、「リトルプリンス」を家族で観た。そして、昨日は「パンターニ」を一人で観た。この2本は勿論全然違うことを描いている、一見共通項のない映画のように思えるのだが、通奏低音が意外と個人的には同じキーを奏でている気がして、思わず書いている。
「リトルプリンス」は言わずと知れた名作。きっと誰もが一度は読んだことがあるはずで、私もご多聞に漏れず、随分昔に一度読んでいる。
- 作者: サン=テグジュペリ,Antoine de Saint‐Exup´ery,内藤濯
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/03/10
- メディア: ハードカバー
- 購入: 19人 クリック: 501回
- この商品を含むブログ (326件) を見る
これに対して、「パンターニ」は、34歳で死んだ天才サイクリストのレース人生を追ったドキュメンタリーである。
90年代後半以降、自転車ロードレースとドーピングが切っても切れない関係だったということが白日の下に晒されてしまい、何人ものサイクリストが自分のドーピング歴を告白するに至ったり、逮捕者が出たり、という悲しい状況の中で、今一度パンターニという存在を問い直そうとした野心作ではある(が、それが成功したかどうかは微妙である)。まあ、作品の細かなところには触れないでおくが、やはり一自転車ロードレースファンとしては、あの坂をカッ飛んでいくパンターニの勇姿をスクリーンで観れるというのは感慨深いもので、例のランス・アームストロングとの「譲ってやったぜ」の悶着や、歴代最高タイムを叩き出したときのラルプデュエズ等々、ある意味、こちらも涙なしには観れないシーンがいくつかあるのも事実。
二つの映画の共通点、つまりさっき私がカッコつけて言った「通奏低音」は、ずばり(このタイミングで言うかな、という気もするが)、
喪失感
なのである。「リトルプリンス」は大人になることによって失われてしまう「幼児性」を描いている。主人公の女の子は、母親がきっちりと決めたスケジュールにのっとって、子供らしい無駄なことを何一つせずに、理想の人生を歩むことを強要されている。つまり、子供でありながら、子供心を「喪失」しかけていたところに、飛行士との出会いによって何とか踏みとどまることができた(勿論、それが良いことかどうかは別だし、どちらにしても彼女は大人になってビジネスマンになっていくわけなのだから、それはこの次の話だ)。
「パンターニ」では誰が言った台詞だったか忘れてしまったが、「パンターニは16歳の少年のような眼をしていた」とのこと。スクリーンに映る在りし日の彼は、スキンヘッドに髭面で、一見強面の海賊、またアングルを変えれば思慮深い哲学者に見えなくもないが、激坂を登るその時でさえ、きらきら輝く少年の眼をしていたのもこれまた事実。彼がドーピングをしていようとしていまいと、そして彼が陰謀の犠牲になったならないはともかく、とにかく彼はある意味永遠の中二病だったのかもしれない。
しかし、EPO使用疑惑が始まってから、永遠の中二病患者に否応なしに現実が迫ってきたのだった。彼は永遠の16歳でいられなくなった。自らの少年性を「喪失」することを強いられ、そしてその「喪失」を別の価値基準で埋められないままにこの世を去った。
童の時は、語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとく也しが
人となりては、童のことを捨てたり
これは「攻殻機動隊」で草薙素子が言う台詞だが、もともとは「コリント人への手紙 13章11」からの引用らしい。この「童」であることを捨てざるをえなかった(多分、本当は捨てたくなかった)パンターニ、そして「童」を捨てることを強要されつつ、何とか執行猶予を勝ち取った「リトルプリンス」の主人公の女の子。
私は、「童」を捨てることは成長の過程における必然であると考えるが、それを捨てるタイミングは自分で選ぶべきだと考える。
別に周囲が許すなら中年でも老人でも童のままでもいいと思うのだ。
ただ、実際にはそんな自由度があるわけはない。だから、自分で「童」を捨てるタイミングを選ぼうという意思を持った「リトルプリンス」の女の子の決断に涙するわけだ。「童」を捨てさせられたパンターニに涙するわけだ。
ようするにそういうことなのだ。
たまたま同時に観た映画でこんな通奏低音が共通していたとは。
何となく不思議な気分である。
……そして、我が娘はポップコーンをぼりぼり頬張りながら、「童」のまんま「リトルプリンス」を観ていたわけであった。