BearLog PART2

暇な中年の独り言です

Ghost In The Shell

 観てしまった。
 しかも初日に劇場に足を運ぶなんて、一体全体何年ぶりの話だろう。中学生の時は友達との遊びの一環で、よく初日の初回に並んだものだったけれど、そのときのように映画鑑賞を大きなイベントとして考えなくなってから一体どれだけの時間が経過したというのか?、というような中年的な感慨は置いておいて、手短に感想(批評的な言葉を探そうにも出てこないので)をだらだらと述べさせて頂く。

 色々な人が色々なところで既に語っているだろうから、多分、多かれ少なかれ、私の感想もそういった先人の方々の域を出ないと思うのだが、何はともあれ、一見の価値はあるけれども、過去の押井版や神山版のような時事ネタへの批評的な態度や未来予測的な、観客側を圧倒するような世界観の提案ということは残念ながら(というか、予想された通り)、まったくない。
 劇場第一作や「イノセント」や「SAC」、「SAC 2nd GIG」といった過去の作品の壮麗な絵コンテ集というかんじなんである。ルパード・サンダース監督がインタビューで自ら述べているのだが、

今回の映画をつくるうえでは、まず押井版の映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』と『イノセンス』から、自分がいちファンとして観たいシーンを組み合わせて実写映画の骨格をつくったんだ。

今回の実写映画では、これから先の未来の世界を予測することはせずに、あえてそういった「攻殻」の世界をできるだけ忠実に再現することにした。

 要するにこの監督自身の言葉に集約されている。
 そういう映画なのだ。だから、所謂マニアが好きな「攻殻機動隊的」なストーリーや世界観を求めても無駄で、妙にマッチョなスカーレット・ヨハンソンのボディラインを眺めつつ、「カツラ、似合ってないなあ」と違和感を感じつつも、「そうそう、このシーンはあそこからだなあ」という元ネタ探しをするという行為に終始するというのが、所謂ほとんどの攻殻機動隊ファンの見方なのではないだろうか。
 それに満足すれば1800円が無駄にならなくてすむだろうし、それに満足できなければ、金返せということになるだろう。

 とはいえ。
 ハリウッドが作った映画であるということを忘れてはいけないと思うのだ。「パシフィック・リム」でも思ったのだが、はっきり言って、ハリウッドが日本のアニメ的な表現を換骨奪胎して、ここまでの「映像」を作り上げているということに対して危機感を感じるべきなのだと思う。
 哲学や世界観というものは、「映画」という大衆芸術においては多分二の次、三の次といった優先順位で取り上げられるものなのだろう。攻殻機動隊的な世界観だって、多分一部の好事家だけが好意的に受け止めるだけで、大衆性があるとは思えない。
 ただ、劇場第一作にしても「イノセント」にしても、「SAC」シリーズにしても、映像的な表現と世界観の提示というものが、幸福なことに非常によい塩梅でバランスしていたということだけは明らかだと思う。
 しかし、世界観を提示すべき箱のような存在であるかと思われた「映像」は、今回の実写版で、明らかに世界観を凌駕してしまった気がする。伝えるべきものよりも、伝える道具の方が進化してしまった、そんなアンバランスな作品のような気がしている。

 それって、テクノロジーと人間の関係にも置き換えられそうで、面白い暗喩になっているような気がするのは私だけなのだろうか。

 繰り返し言うが、押井さんもリンク先のインタビューで、

やっぱり具体的に生身の人間が肉体を通さないと表現できないよ。役者さんの身体がささえている映画であることは間違いないと思います。

だからこそアニメーションはアニメーションでできることを考えるしかない。同じようなことはできないから。でも今は途方に暮れてるところ。自分がアニメを作る機会があるとしたら、結構な作品を完成させるっていう自信はあるんだけれども。それ以上のものにならないんだったらあんまりやる意味がないからね。でも『攻殻』や『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』でやったような、アニメで表現できる新しいテーマは今のところ思い付かない。今は正直ハリウッド映画の方が表現としては質・量ともに上というか、逆転しちゃったんだよね。

 と言っている。これは極めて正しい認識だと思う。
 この実写版の出来を真面目に議論する必要はないと思うが、映像表現として、日本のアニメがハリウッドに肩を並べられ、そして追い越されつつあるということに危機感を持たないといけないと思うのだが、どうなんだろうか………。