BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 That's not good enough!

 というわけで、今日はDCPRGのライブ。渋谷のO-EASTにて。しかし、会場になかなか入れずにすっかりカラダが冷えてしまったのには閉口した。
 もう一つ閉口したのは、オープニングアクトで出てきたDJ三人組。ノイズミュージックというかインダストリアルというか、まあよくある音で意外性もなく、かつマスターベーション的な音の羅列をひたすら繰り返し、こもれまた閉口した。お金とっているわけだから、ああいうマスターベーション的な(はっきり言って俺でもできるぞ、あれくらいの音なら。昔の俺の作った打ち込みの方がよくできているぞ(苦笑))音だけはできれば辞めて欲しい。コミュニケーションを放棄しているとしか思えない。もう一度、アレックス・エンパイアでも聞いて出直せってかんじである。関係ないけど、私はアタリ・ティーンエイジ・ライオットをかつて好んで聞いていた時期があった(苦笑
 それはともかく、DCPRG登場。
 いきなりコーランの歌声が響き渡る。菊地氏がモロッコ帰りだということもこれあり、旅の成果物の一つなんだろうか。コーランが一巡した後で、「構造5」。ラテンテイストのリズム(とはいえ、これもポリフォニックに重ねられたリズムのものだが)が印象的な曲から始まった。二曲目はお約束と言ってもいい「Playmate at Hanoi」でフロアはてんでかってなリズムで踊り狂う人々(少佐の要望もこれあり、今日は二階席で聞くことにした。二階から俯瞰してみるとけっこう面白い。半袖Tシャツの下に着た長袖Tシャツをうまい具合に脱いでいる若い女性がいたり(笑))で、あっと言う間に熱気が漂う。
 その後何曲か続いたが、ちょっと個人的には中だるみ感があったのだが、「Stain alive」「Fame」(何とデビッド・ボウイまで)「Hey Joe」とカバー曲を三つ続けてやると中だるみ感はあっと言う間に霧散。デビッド・ボウイまでやるとはちょっと意外。しかし「Young Americans [ENHANCED CD]」からの一曲だけになかなか狙っているかんじがする。
 後は「Circle Line〜」まで一気呵成。引き続き、密度の濃い演奏が続く。アンコールは「天国と寺院の構造」「Mirror ball」。以上でライブは終了。
 前回のミルクと違って、フルメンバーだったこともあり、音の厚みも増し、非常によいかんじであった。引き続き強烈なポリリズムは健在、このリズムの妙にはまってしまうとなかなか抜けられない。事実、私はもはや抜けることができないDCPRGの無間地獄に入ってしまっている(笑)
 結局このポリリズムは現代を生きる我々の象徴のような気がしている。我々は、企業だの家庭だのその他諸々が織りなすリズムの上で踊っているわけであり、それぞれの共同体は微妙に異なるリズムを奏でている。我々はそれぞれの共同体が奏でるリズムに合わせる、もしくは無視しつつ、何とか生活をしているわけで、その複雑でばらばらなリズムを一つの有機体として感じ取りながら、何とか自我を維持している。DCPRGの音楽の魅力はまさにここに集約される。複雑なリズムの微妙なバランス、その妙なのだ。
 全然関係ないのだが、「Stain alive」を聞いているとき、ふとグールドのモーツアルトK331のピアノソナタを思い出した。有名な話だが、グールドはこの「トルコ風行進曲」を恐ろしくゆっくりと弾いている。想定されるテンポを大きく逸脱する演奏をグールドは何度かやっているが(例えば、ストコフスキーと競演したベートーベンの「皇帝」とか、バッハ「イタリア協奏曲」とか)、このDCPRGの「Stain〜」を聞いてふと唐突にグールドを思った。グールドは終世「ポリフォニー」にこだわり続けた人だった。バッハのフーガの各旋律をあれだけ明瞭に弾いた人は彼以外に私は知らない。「複数」であることにこだわると一定のリズムや基準で進行していく時間に対して反抗したくなるということなんではないか、と推論する次第。ポリフォニーポリリズムも「近代的自我」が生む「モノフォニック」「モノリズム」的な音の、その対局を成す。だからこそ、通常のテンポを逸脱することで自らの「アンチ」の姿勢を明確にしようとするのだろう。

 そう考えるとDCPRGにはまだまだ頑張ってもらわなければならない。
 That's not good enough!
 「モノ」的世界観への「ポリ」的世界観からの挑戦はまだ始まったばかりなのだ。