BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 自壊する帝国

自壊する帝国

 今日読み終わった。非常に面白かった。
 佐藤優氏については、前著「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」以来のファンでもあり、高校の大先輩だったりもするのだが、「自壊する帝国」も読みながらも考えさせられることが多かった。
 本書自体は氏が旧ソ連に赴任していた頃につぶさに見てきたソ連崩壊の過程を、氏とかかった人々の相貌と共に様々な人間模様を描きながら、丹念に追っていたものである。時系列で言うと、本書の後に、氏は地検特捜部に逮捕されることになる。
 本書の内容を子細にここで述べるのはまったく意味のないことなので、それは止めておこう。本書を通読しながら、私が思ったことをつらつらと書き留めていきたい。

 ここしばらく、私が何度も言及しているかのように「大きな物語」が死んでしまった今となっては、「国家」とか「国益」というものは、ある意味、空虚なものになっているのかもしれない。
 企業は国境を越えて活動をするし、国際的な情報化の流れの中で、国民レベルでも国というものを越境して活動できるような素地が整ってきているのも事実。多くな人々が国家という「大きな物語」を信じなくなってきている。
 とはいうものの、国境がなくなるほど、人々も企業の完全にネットワーク化されているわけではない。また地政学的なリスクも常に存在している。その不完全な国際化の中では、ある意味、「大きな物語(国家、国益)」というものが、非常に中途半端な形で亡霊のように徘徊している。本書を読むと、そのことが非常によく分かる。
 そういう過渡的な形態の中では、まさに「大きな物語」に殉じようとしている人々は、自らの存在基盤をひたすら追求していくと、巨大な空虚に行き当たる。本書には色々なタイプの人々が出てくるのだが、一様に、ソ連という「大きな物語」が瓦解していく状況で、自分自身が何であるのかをひたすら問いただしているように見える。特に知識階層においては、その自虐的な自己認識の刃はきつくあたったのではないだろうか。

  • 人間は弱い

 「インテリゲンツィア」という言葉をよく使うが、この「インテリ」という言葉はいったい何なのか?ということをしみじみと考えた。
本書に出てくる人々は、「インテリ」だったり、「政治家」だったり、多種多様な人々が出てくるのだが、私が非常に感心を持ったのはまさに「インテリ」だ。
 ソ連が崩壊していく過程において、宗教だとかイデオロギーだとかが非常に重要な役割を担ったように思う。 崩壊途上のソ連のような状況下では、「自分はどうやって生きていけばいいのか?」という過酷な質問に毎日答えなければならない。それは政治的緊張だったり、経済的な困窮であったり、要するに自らの存在が脅かされる、という状況だ。
 それこそ人々は。イデオロギーや宗教を真面目に、それこそ我が身を持って背負い、何とかして生きていこうとする。それは庶民でもインテリでも政治家でも皆同じだ。その重さたるや平和ボケした私たちにはうかがい知れないものなのだと思う。知識がある者は、自らの知識故に、混乱の中、自らの存在を厳しく問う。人により答えはさまざまだが、一様に厳しく問いつめた結果、自らの人世の選択をしたはずだ。
 そのとき、弱い人間が「大きな物語」に再びすがりつくことになったとして、我々はそれを笑うことができるだろうか? 多分できまい。人は生きていかなければならないからだ。
 ただ、今の日本でソ連が崩壊したときのような政治的混乱は当分は起こらないような気がする。そもそも、経済的に多少の好不調の波があろうとも、根本的に経済が崩壊しているということはないからだ(まあ、別の見方をすれば、既に崩壊しているということは言えるかもしれないが)。そういう中では、「大きな物語」が死んだからといって、国家が根本的に瓦解してしまうわけではない。人々は皆、動物的に消費社会の中で生きていくことができるからだ。

 などいうことを考えながら読んだ。非常に考えさせられた。