BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 東浩紀氏により「ゲーム的リアリズム」講演における備忘録2

 だいぶ遅くなったが、前回エントリの続きであり、第二回の分(7月20日)、である。くどいようだが、あくまでも私の備忘録として書かれているために、講演の内容と食い違うところがあったり、私自身の考察がまざっていたりしており、正確に講演を再現しようとしているものではない、ということを敢えて強調させて頂く。

 前回の講演のところからの続きで「偶然性」「必然性」というところをざざっとおさらいし、Nationalismが「偶然『生』を受けたことを必然に変えてしまう装置」だという言及があってから、ハイデガーデリダの話になった。
 人間の生とは、『死」というものへ確実に到達する過程であるということ。すなわち、英語で言うと、destination(宛先、行き先)=destiny(運命)、人生とは自らの生を「死」へと確実に届けるものである。これ、すなわち「郵便」というものに近いのではないか。だからこそ、その「運命」を甘受せいよ、というのがハイデガー的なものの考え方。
 ところが、デリダにおいては、「人生もっと色々紆余曲折あるから、まっすぐに『死』に辿りつかないこともあるんじゃないの」といったような立場。「La carte Postal(郵便はがき)」という著作はそんなようなことを述べたもの。きちんと辿り着かないという現実がそこにはある。
 モダンな世界においては、「確実に宛先に届く」ということ。国家のイデオロギー装置(アルチュセールの概念)はきちんと人間のアイデンティティを配達するメディアであった(まさにメタファーとしての「郵便局」だ。私見だが、ピンチョンが「The crying of Lot.49」で「郵便」を取り上げたのはまさにこのためなのか?)。しかし、ここ最近においては、このアイデンティティの配達機能が正常に動かなくなってきている。「郵便的」(すなわち「受け手」と「送り手」ともにフレームワークがきちんと作れない時代)なものが機能しなくなってしまった。

  • そこで情報自由論へ

 という前提をもとに、モダンなフレームワークが機能しなくなっている今、国家、情報、管理、といったことがどういう風に変質をとげているかに、話が及ぶ。東氏が言う「情報自由論」は、「情報管理」と「匿名性」という二つの概念から構成されている。

  • 情報管理

 一言で言ってしまえば「規律」ではなく、「環境」でコントロールすること。「規律」というのは、フーコーの「監獄の誕生」で述べられている概念であって、所謂「discipline」(規律、もしくは躾)によって秩序を作る。一カ所に人々を集めて囲い込んで訓練して秩序を作る。監獄、学校、会社のようなもの。まさにヨーロッパ的な秩序の作り方。
 またこの「discipline」だけではなく、「biopouvior(生権力とでも言うのか)」も管理における重要な概念になっているとのこと。この「biopouvior」は、「人間の生の条件を作っているもの」とでも言えばいいのだろうか。要するに人々が生きる「環境」へ直接働きかけることによって人々を管理しようとすること。フーコーはこれについては「性の歴史」でも詳細に述べている。
 この「discipline」と「biopouvior」の双方が併存しているのが、今の社会。「discipline」は個人へ直接作用するものだが、「biopouvior」は群れとしての人間、群れとして生きている人間の環境に作用するものだ。
 911以降(勿論ポルシェではない。日付である)、「友」と「敵」(カール・シュミットによる)の区別がつかなくなり、のっぺりと一体化したグローバルな環境の中、ウィルスのような危険があちらこちらに遍在している状態。まさにこれが現代の状況ではないか。遍在化する小さな「敵」(まさにテロルの恐怖とはそういうことではないか)をどうやってブロックするか、がこの社会の課題になってしまっている。
 この「情報管理」とはフーコーが指摘した「パノプティコン」のようなモデルで一カ所に囲い込んで管理するというようなものではなく、もはや囲い込みをせずに、主体の意志に左右されない形で管理を行うこと、である。そして911以降、社会秩序の原理が、環境管理へと変わってきている。

  • 匿名性

 匿名性に対する概念として「顕名性」と東氏は述べている。言葉としては彼の造語らしい。確かに「匿名」という概念はあっても、「名前を明かす」ということについての明確な言葉はないと言えばないようだ。
 匿名性には二つの側面がある。一つは「発信者の匿名性」であり、もうひとつは「受信者の匿名性」である。
 インターネットを考えれば分かるように、実は「受信者の匿名性」というものはなくなってきているのが事実。ダウンロードで音楽を買えば、どこの誰かは「発信者」側には知られてしまう。ICカードで電車に乗れば、その人の乗車履歴が全部どこかのサーバーに補完されている。要するに、「受信者」の匿名性がなくなってきており、個人情報のばらまき、があちらこちらで起こっているのではないか。

  • そこで偶然性との関連

 以上の論点を統合して考えてみると、「大きな物語」によって、個人のアイデンティティが担保されていた時代が過ぎてみると、「大きな物語」が与えてくれた「必然」とは別の形での「必然」が出てきている。それは「社会環境のカスタマイズ」という形、すなわち環境管理、という形で既に出てきている。例としては、性犯罪の前歴のある人にGPSを付けることを義務化するとかいうこと。特にこの手の環境管理はアメリカで著しい。
 しかも、「匿名性」が失われていることを合わせて考えれば、まさに「個人」を「discipline」ではなく、その人が生きる環境をコントロールすることによって、管理することが社会のトレンドになってきているのではないか。まさに個人個人の性癖や嗜好性によって、電子的に環境をコントロールしてしまう世界。
 そこで「偶然性」の感覚をどうやしなうか。そこでこそ、人が人として「共感」していく、ということが大きな意味を持つのではないか。

 ざざっとまとめるとそんなかたち。それ以外にも、東氏がフランスの語学学校で苦労した話なども出て、興味深かった。
 またここでは書き尽くせていないが、「情報自由論」における「環境管理」「匿名性」については、実例を豊富に上げて頂き、その実例が理解を進めるにあたっての有力の手がかりになったのだが、ここではほぼ全部割愛させて頂いている。