BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 柄谷行人 講演会備忘録

 このエントリについても、最初に断言しておこう。これはさる6月14日に朝日カルチャーセンターで行われた、柄谷行人氏の講演会を巡る私自身の思考にまつわる備忘録、である。このエントリは氏の講演を正確に再現するといった類のものではないので、それを期待して読まれる方については、あらかじめご留意頂くよう申し上げておく。氏の発言と自らの考えたことをごっちゃに書いているので、あくまでも誤解なきように……。
 これはあくまでも、自分自身の思考を整理するために行っていることであるため、講演内容を忠実に再現しているわけではない。

  • 中間勢力、中間団体の問題

 そもそもは、最近出た岩波新書「世界共和国へ」を巡る講演、というふれこみだったのだが、蓋を開けてみると、「中間層、中間勢力の問題について」ということになっていた。そもそも「世界共和国」という概念よりも、ある種自分の知的アイドルである柄谷氏のしゃべりに触れてみたい、というのが、本日の趣旨なので、特に異論はない。
 柄谷氏は、私自身がこのBlogで何度か述べているが、80年代の私の知的アイドルの1人で、その言説にはずっと注目をしてきている。そもそも文芸評論から、マルクスの問題、精神分析数学基礎論等「形式化」の問題、等々について、常に刺激的であり、迂回しながらも暴力的に核心に迫っていく独特の文体、思考方法は、非常に愛着がある。臆面もなく言ってしまうなら、まさに影響を受けた、ということになる。

  • 恐ろしいことに日本には「デモ」がない

 日本においては、国民の直接行動である「デモ」がない、と開口一番。そもそも氏が2003年にUCLAに行ったとき、ちょうどイラク戦が始まったばかりのとき、だったそうで、UCLAという場所柄もあるのだが、反戦のデモやら集会やらがひっきりなしに行われていたようだ。しかし、それと比較して、日本ではしんと静まりかえっており、その静けさが異様だった、と氏は述べている。デモには明らかに政治的な効果があるにもかかわらず、日本ではデモがない。これはインターネット等のコミュニケーションツールが発達したからデモがない、というのではなく、日本の国民性にある意味根差している現象であり、日本の政治状況はまさに専制国家なみなのだ、と。
 60年代には、安保等々に関するデモがあった。全学連の学生だけでなく、一般市民もデモに参加していた。しかし、70年代以降、デモが激減、参加する人数が減ってしまえば、逆にデモは先鋭化し、過激になっていき、日本赤軍的なものになってしまった。よって、過激派も生き残り、その一方でデモのなくなるという、両極端な方になってしまった。
 日本人は、政治行動やデモを軽視する傾向があるが、それは大きな間違い、ということか。

 和辻哲郎の「風土」からの引用。
「……公共的なるものを「よそもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることのみにかかっていることは、ここに明らかに示されていると思う……」
 日本人は政治的思想的意見を持たない傾向がある。しかしながら、自らの「家」の中に入ってくるもの、侵入してくるものについては激しく抵抗する。なぜそうなのか? 和辻は「モンスーン風土の特殊形態」という言い方もしているが、それ以上に決定的なのは、「中間勢力が存在しない」というところなのではないか。和辻は同じく「風土」の中でこう述べている。
「すなわちいかに奴隷的な労働を強いられても、それは彼から「家」の内部におけるへだてなき生活をさえ奪い去るごときものではなかった。それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争闘的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能になるのである。」
 つまり、日本(ここで言う前者)は、ヨーロッパ的な「封建制」が解体されてしまったがゆえに、「公的」「私的」という区分の中で、「公的」なものが軽視される、もしくは無視されることになった。

 ということで、和辻の議論を受けて、次は丸山真男の言説をトレースしながら、日本人の特異性や文学の終焉、の話になっていく。丸山真男は、個人の社会に対する態度を結社形成的(associative)と非結社形成的(dissociative)という縦軸と、政治的権威に対する求心的な態度(centripetal)と遠心的な態度(centorifugal)の横軸の二次元座標で分析した(「個人析出のさまざまなパターン」より)。そうすると、
(1)第一象限 民主化 democratization
(2)第二象限 自立化(individualization)
(3)第三象限 私化(privatization)
(4)第四象限 原子化(atomization)
 の四つに分類できる。(図で示せればいいのだが、面倒なんで省略。結社形成的かつ求心的である(縦軸横軸とも+の象限、これを第一象限とすると、そこから反時計回りに回っていくかんじ)人が(1)民主化で表されることになる。ただ、丸山自身も言っているように、この四つのタイプが独立してば〜んと出てくるのかというと、そういうわけではなく、それぞれのタイプは重なり合っていたり、混ざり合っていたりする。
 例えば、十分に大衆化が進めば(4)が一般的になるだろうし、後進国では(1)+(4)の状況、資本主義は未発達のところについては、(4)が強くなる傾向がある、ということになる。また、近代化がゆっくり自立的に起こるケースとしては、(2)+(3)という組み合わせになるだろう。日本では一般的な傾向として、(2)が弱く、(3)が強い。
 この状況を歴史的に考察していくと、和辻の議論ともかぶるところが出てくるのだが、結局、日本においては、国家権力に対抗するギルドや自由都市がないため、近代化は早急に進んだが、しかし、そのせいで、国家に対抗する「中間勢力」が弱い、ということになってしまった。
 丸山によれば、「その社会的秘密は、自主的特権に依拠する封建的=身分的中間勢力の抵抗の脆さであった。明治政府が帝国議会開設にさきだって家族制度をあらためヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院など、国家権力にたいする社会的バリケードがいかに本来薄弱であったかがわかる(日本の思想)」ということになる。
 また、それに加えて、国家が教育を牛耳ったことも大きい、とする。「寺子屋教育を国家教育にきりかえることは、きわめて用意だったわけです(思想と政治)」
 という二つの要因から、日本では中間勢力が明治以降潰され育たず、そして90年代小泉改革で息の根を止められた、ということなのか。
 この「中間勢力」は、ある意味、現在的な意味で考えれば、既得権益を握っている団体かもしれないが、90年代の小泉改革で、そういった既得権益を握る団体については、「抵抗勢力」で「反改革」というレッテルを貼られたが故に。それを潰す動きについては、まったくもって反論できなかった。という状況がある(確かにそうだ。良いか悪いかは別にして……)。

 基本的に、和辻にしても丸山にしても、その考え方の源泉はモンテスキューにある。前に述べたような、この「封建的」であることが、民主主義育成の一つの重要な要件になってくるということ。すなわち、中間勢力というものは、必ずしも進歩的な団体ではない、ということに留意する必要がある。モンテスキューによれば、共和制からも専制政治は出てくるということであって、専制政治に対する抑止力として、個人がassociativeにつながることのできる、中間勢力は絶対に必要な存在なのだ、ということになる。
 ここで言う封建制は、生産様式の面だけで考えれば、専制政治と大差ない。封建制の特異性は、支配階級内での相互の関係性を見なければならない。すなわち、封建制は、土地を媒介にした「双務的」な契約であり、主君も家臣もあくまでも権利義務を負う(双務的)な関係である。つまりはレシプロな関係になっているが、先制国家というのは、あくまでも国家が発する命令にただ従うだけであり、そこには双務的な契約の概念はまったくない。
 封建的な世界では、「王」は存在できたとしても、その存在は絶対的なものではない。あくまでも支配階級間の人格的な関係にとどまってしまうため、「官僚制」も存在することはできない。「封建制」とは、あくまでも多元的な政治システム、なのだということ。この多元的な政治システムは、中央集権的なものに対抗する唯一の勢力、になる。
 また、シェルドン・S・ウォリン「アメリ憲法の呪縛」などを援用しながら、アメリカにも「封建制」という過去があり、イギリスからの独立革命も、「イギリスの行政の求心的合理化に対抗する、封建制的な対抗革命であった(同書への柄谷氏の書評(朝日新聞2006年9月)より)」と見ることができるわけで、1788年に合衆国憲法が制定された段階で、初めて、「多様な分権的体制から統一を目指す集権的国家への転回が生じた。この憲法は、国家権力を制限する機能を果たすのではなく、逆に、人民という名の下に、国家主権の無制約な拡張をもたらすものである。この憲法にふくまれた画一的な集権化の意図は、南北戦争を経て実現された(同書評より)」ということであり、いくら「小さな政府」を志向したとしても、それは別の形で、結果的には国家権力を強化するだけのものである。
 ということで、権力に対抗するための源泉は「封建制」=「中間勢力」に求めなければならない、ということが繰り返し強調される。

  • 戦後政治の大まかな流れ

 そこでもう一度、1960年代から現在へ至る過程を振り返ってみる。
 1960年代までは、先に述べた(1)民主的(これは左翼にあたる。共産党が支配的な動きをした)を中心に政治活動(デモ)が行われ、個人の契機はあまり重視されない状況であった。その中で、徐々に個人のことが問題となり始め、「主体性論争」などを経て、まさに「政治と文学」の季節、となった。
 1960年代以降については、個人の契機を重視するのは当たり前となり、(2)自立化へと移行していく。普通の人が普通に政治活動(デモ)に参加する時代になった。この「普通の人が普通にデモをする」状況を見て、丸山などは感動した、らしい。
 ところが1970年代以降については、個人の有り様が、さらに(3)私化へ移行していく。この「私化」の過程で、政治活動(デモ)への参加者は減少し、減少するが故に、先鋭化の兆しを見せる。連合赤軍などはまさにその象徴的な例であろう。(3)私化からさらに(4)原子化へ移行していくが、その減少を文学で言うならば、村上春樹、ということになる。
 結局、1970年代移行の退行は、新左翼運動の挫折ということでひとくくりにまとめることができるのかもしれない。ただし、村上春樹のように。(1)民主化や(2)自立化に対して「私」を強調するのは、新しい文学的方法ではなく、昔からあったものである。例えば国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」。ここで描かれているのは「忘れ得ぬ」ではなく「忘れていい」「どうでもいい」ことを描いているのであり、そこでは(1)民主化、(2)自立化に対して、「風景」「私」の優位性が歌われている。この価値転倒、から近代文学が発生しており、村上の方法論はむしろ旧態依然としたものだ。

  • 文学の終焉

 明治10年代、文学は政治的なもので、大半がプロパガンダ、であった。(1)民主化、すなわち、士族、ヤクザ(侠客)の文学であった。しかし、中央集権化が達成されていくと、(2)自立化へと移行し、現実における政治的な敗北を想像世界で超越していこうという動きが現れる。戦後の新左翼運動の挫折などを通して、(3)私化へと文学が進んでいった。先の述べたように、そこでの価値転倒はもはや新味なものではなく、それは文学でも何でもない。よって文学は終わった、ということになる。


 その後、質問の時間がかなりとられた。この講演において、私が疑問に思ったことは、二点。
(1)「年功序列」「終身雇用」「企業内組合」という三種の神器の日本型経営を旨とする戦後型の「カイシャ」はなぜ中間勢力には成り得なかったのか。
(2)権力に対して、アクロバティックな身振りで(権力を否定するわけではなく、権力を前提として、その権力に対して、自らをスケープゴートとすることによって、「No」を突きつける佐藤優のような動き方は、新しい中間勢力になり得るのではないか。ただ、彼の言説が商品としてパッケージ化されて消費されることについてはどうなのか?
 という二点について、実際に氏に質問をしてみたところ。
 (1)について。は、結局それは小泉改革の中で潰されてしまったのだろう、ということ。まあ確かに、今後、「カイシャ」が生き残っていくためには、「資本」「国家」の癒着の中での生存を賭けていくしかないわけで、それは多分「中間勢力」的にはならない可能性が高い。とはいえ、そもそも、生産設備に価値があるわけではなく、知的労働力に価値が出てくるような時代であるからして、労働者とカイシャ、資本家の立ち位置が変化してくるであろうことは容易に想像がつく。そのあたりは、氏に頼るというよりは、己の課題としたいところだ。
 (2)について。消費されることについては、「今のうちはあれでいいと思う」との楽観的な見方だった。なるほどなあと妙に納得してしまった(笑)

 また、東浩紀的な「テクノロジーの問題」だと割り切るような見方については、「そうではない」という場面もあった。テクノロジーがあろうとなかろうと、「中間勢力」の有無が非常に大きいのだということなのだろう。


 例えば、我々自身、日々権力とむきあって、生活をしているわけで、その現実に自覚的になって、主体的に行動していくためには、何が必要なのか? 例えば世界的に見ればまだまだ貧困にあえいでいる人は多いわけで、そういう現実に我々はどう立ち向かっていけばいいのか? 中間勢力なく、個々に分断されている人々はどう、連帯し、どう権力と立ち向かっていけばいいのか? そういったことを色々と考えさせられる講演ではあった。
 迂回しながらも暴力的に、核心に触れるアフォリズムを呟く、氏の口調は、東浩紀氏とは違った意味で、非常に魅力的ではあった。

風土―人間学的考察 (ワイド版岩波文庫)

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日本の思想 (岩波新書)

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アメリカ憲法の呪縛

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