BearLog PART2

暇な中年の独り言です

はてさて、どこにリアルがあるものか

 1巻〜3巻までkindleで購入していたが、4巻、5巻もkindle版で続けて購入。
 吉田秋生、「吉祥天女」や「河よりも長くゆるやかに」等々からのファンであります。そこから遡って、「カリフォルニア物語」を読んだ。どれも、私が多分もっとも多感であったろう高校から浪人時代に読んでいるわけで、多分これらの漫画は私の血となり肉となり、精神の一部になり、思考パターンの一部になり、とにかくもはや自分とは切っても切れないものになったに違いない。
 どの作品もそうなのだが、吉田秋生は人間の「業」みたいなものを描くのが好きだ。その「業」というのは、それこそ「次郎物語」の岩割りの松(古いな〜、我ながら)」ではないが、不条理な環境に置かれながらも、全力を尽くして生き抜こうとするという姿勢みたいなものだ。吉田作品に出てくる主人公は、自殺を図るが死なない(ことが多い。一部自死してしまうこともあるが)。死なない、むしろ自分自身が生きて行かなければならないという「業」に支配されるかのように、「死ねない」のだ。
 基本的には、この「業」によって生きる人々の悪戦苦闘が、多分読者になにがしかの感動を与えるのだろうと思う。御多分にもれず、この「海街diary」の登場人物も、不条理な境遇を受け入れつつ、死という選択肢を取り上げられたまま、不器用に生きていく。
 多分だからこそ共感される。
 ただまあ、登場人物の「業」を表現するために、吉田秋生が登場人物を放り込む現実は、よくよく考えるとあまり現実的ではない。実際にはありそうもないのだが、ひょっとしてあるかも?と思わせる「際」のところ、というか冷静に考えると設定には難あり、な、感じがしないでもない。私のような意地悪目の読者からすると、「それってある意味特殊な水槽かね?」と突っ込みたくなるような気もする。現実を現実的に書くというよりは、「業」の協調のためにデフォルメされている設定。
 でも漫画だからな、と思うわけ。
 通常の漫画は、特殊な設定(含むSF、ラブコメ)で、特殊なキャラ(それこそ特A級のハッカーで地上最強の義体使いとかさ)が、現実的なロジックに基づき動くというケースが多い。このロジックが、作品にリアルっぽさを与える。それこそ、「攻殻機動隊」だったら、警察的、もしくはハードボイルド的ロジックがベースにあるから、荒唐無稽であるにもかかわらず、一応リアルになる。逆に言うと、キャラのキャラたる由縁はありそうでなくて、多分行動のロジックだけが担保されている。
 しかし、吉田漫画って、特殊な設定の中に、ごくごく一般的なキャラが放り込まれている印象なのだ。そこでの行動については、あまりロジカルではないような気がする。特殊な設定の中で、市井の人々がたんに群像劇のようにウロウロする。しかも「生きる」という「業」に支配されたごく普通の人々がウロウロしているだけ、に見えなくもない。
 と、ここまで書いてみたが、当然、「おいおい、そんなことないぜ。『バナナフィッシュ』や『夜叉』なんて、特殊なキャラだろう?」と言う方もいらっしゃるだろう。
 でも考えてみて欲しい。
 そこで出てくる一連の登場人物については、「キャラ」として拡大再生産されないだろう。固有の作品のTPOにのみ支配されている。吉田作品では「キャラ」が持つロジックではリアルを演出していないということだと思うのだ。特殊な設定の中で、ウロウロする普通の登場人物。特殊な設定と普通のキャラは、多分、分かち難く結びついており、その組み合わせこそが意味を成す。そしてリアルを支えている、気がする。
 多分。
 多分、そのロジックの不在こそが吉田作品の中でリアルを担保しているのだと主張したい。
 特殊な設定の中、ブラウン運動のようにウロウロする市井の人々、そしてその市井の人々は、特殊な設定の中でしか生きられない人々なのだ。
 特殊な設定 < 特殊な人々のロジック = リアル、というのが漫画漫画であり、このロジックこそが
 特殊な設定 × 普通の人々 = リアル、というのが吉田漫画の基本的な構造。

 ではなかろうか。
 長々書いたけど、私は吉田作品のファンであることだけは間違いないwww