BearLog PART2

暇な中年の独り言です

ついに完結、『海街』!

 

海街diary 9 行ってくる (フラワーコミックス)

海街diary 9 行ってくる (フラワーコミックス)

 

  やや出遅れ感満載であるが、先日の三連休中に読了。

 これで「海街」も完結か、と思ったけれどもあまり感慨はない。ある意味、思ったとおり簡潔に完結したなあ(ダジャレっぽいけど実際そうだから)という感じなんである。

 そもそも「海街」については、一回くどくどと書いてある。

 詳細はこちらを参照して欲しい。本当にくどくど書いてあって自分でも嫌になるところだ。それだけ、この作品については自分としては考えていきたいという思いが強いのだ。

 何でかというと、この作品を読む度にこんな皮肉な私でさえ、「ああきちんと折り目正しく前向きに生きていかなければなあ」と思ってしまうからだ。私のような万事斜に構えてヘラヘラしている人間が、どうして前向きな気持ちになってしまうのかということを自分自身の内面の変化であるにもかかわらず、まったく把握できない、理解できないためにいつも戸惑いを感じてしまうためなのだ。

 なぜ、すずちゃんやシャチ姉に共感してしまうのか。自分自身の境遇はここまで物語的でないにもかかわらず(と自分では思っているが、見る人が見ればかなりドラマな人生だ、とも言える)、どうして登場人物に共感してしまうのか。

 しかも、私のような百戦錬磨の皮肉屋、悪い意味での物語鑑賞者が、である。その謎、疑問を自分自身で解明したい、と思っているところが多分にある。

 だから以前の駄文で言っているような、この場合の「リアル」というのは明らかに自分自身が「共感」「感動」できる、という意味で言っていると思われる(後から考えると)。通常の「現実的」というリアルよりも、「どうして俺はこの登場人物に共感するのか、共感するということは『リアル』だ」と私自身が思っているフシがある。そこ、「我ながら理解できないな」というかんじをクドクド言っているのが、以前の考察なんだと今になって整理できる。

 という自分の心持ちはここまでにして、「海街」本題へ戻りたい。

 さてこの「行ってくる」において、擬似家族としての「香田家」はついに前向きに解体され、それぞれが新しい人生に歩んでいく姿が肯定的に描かれる。

 赤塚不二夫バカボンのパパに仮託した名言「これでいいのだ!」そのものといった完結だ。

 このラストに対して何の文句をいうことがあろうか。

 さまざまな事情を抱えた人々が不器用に生きていく姿を描いた本作は、物語の開始から「香田家」の解体という結末を内包しつつ展開が進んでいった。

 人は定めとして必ず死んでいくものだが、物語においてはその因果律がたまに外れることもある。想定外の出来事の連鎖によって物語が紡がれることもある。暴力的に言うならば「風が吹けば桶屋が儲かる」といったところだ。「海街」の物語の紡ぎ方はそれとは異なる。前回の駄文でクドクド言っている通りで、「不条理な環境に置かれながらも、全力を尽くして生き抜こうとするという姿勢みたいなもの」をひたすらシツコク反復させていくだけ。そこには実は老練な漫画的テクニックがこれでもか、というくらい練り込まれていて、そこはあざといくらいだ。老練な漫画的テクニックについては詳述しないが、いやはやそこは吉田秋生は本当に老練なのだ。これについては別の時(機会があれば)述べたいと思う。

 しかし、そのあざとさに乗るのもいいものなんだ、と思ったりする。だって、読後の感じが気持ちいいから。爽やかな気分になるから。

 本作について私ごときが批評的言説を並べ立てる必要はないんだろう。

 ただ、これ以上、私のような者がこの心地よい作者の掌の上でまったり過ごしていてはいけないのだとも思うのだ。「海街」が完結してしまったように、私も「海街」から出て行かなければならないのだ。

 行ってきます、と。