BearLog PART2

暇な中年の独り言です

12月4日 ことばとは何なのか

 午後から出社。対面ミーティングやオンラインミーティング等々をこなしてから、なんとなく気分がのらないので、早めに帰宅。

 帰宅して娘の試験勉強にお付き合いしようと思っていたのだが、風呂に入ったまま出てこない笑 まあ仕方ないのでここ最近積んでおいた本をまとめて読む。

 

 言葉、というのは自分にとってはとても大事なテーマで、これをテーマにフィクションを捏造したいと何度も妄想しているところだ。伊藤計劃の「虐殺器官」を読んだときには本当に嫉妬した。

 それはともかく、この本はなかなかおもしろい。自分がまったく無視していた「オノマトペ」というところを起点にして、そこから「言葉の本質」へ迫っていく筆致はなかなかおもしろかった。最初の方はちょっとつまらないかなーと思っていたものの、後半にかけて非常に面白くなってくる。

  言語の発達サイクルをオノマトペの一次的アイコン性→恣意性→体系化→二次的アイコン性」というサイクルで、言語の全体の中でアイコン性と恣意性のバランスをとっていくというくだり、ちょっとなるほどなあと思ってしまった。

 また記号設置問題解決についても面白い仮説を提供してくれている。記号設置問題とは、「あか」なら「あか」という言葉は「赤い」色を指し示しているということをきちんと理解し、その「あか」という言葉を使用できるようになる、というものだ。

 要するに言葉をきちんと学習していくプロセスの話だ。このプロセスは丸暗記ではなく、ある種の推論能力をベースに身に付いていくというものだ。で、この推論のメソッドには3つある。

  • 演繹推論 A=BかつB=CであればA=Cである、というようなもの。
  • 機能推論 サンプルを一定数観察して、そのサンプルから母集団全体を推測する
  • アブダクション推論 A=Cだとすれば、A=BかつB=Cが成立していると推論すること(ん、ちょっと違うか?)

 このアブダクション推論というのがキモだというのだ。つまり、A=Cの事象をみたときに、A=BかつB=Cかな?と思えることが重要だというのだ。本書で実際に出てきた事例で言えば、

  1. この袋の豆はすべて白い(規則)
  2. これらの豆は白い(結果)
  3. ゆえに、これらの豆はこの袋から取り出した豆である(結果の由来の導出)

 この「結果の由来の導出」をするのがアブダクション推論。もちろん1の演繹推論以外は絶対的な真理には到達しない。よってその推論が間違っていた場合、自らの推論を修正(なんと、ここで東浩紀が言う「訂正力」的な概念と同期しているという面白さ)していく必要がある。

 このアブダクション推論を繰り返し行うことにより、幼児は効率的に言語を習得していくというのだ。これをブーㇳストラッピングサイクルと呼ぶらしい。この話と同時にこのアブダクション推論は生まれ持ったものなのか、また動物はアブダクション推論ができるのか、といった興味深い話が続く。そしてそれはどうやら、人間が将来持っているものであり、かつ、動物には備わっていないものらしいというのだ!

 なんと!面白い!

 考えてみれば、原因は結果に先んじて存在する。要するに原因と結果は時系列になっているのだ。しかし目の前にあるのは常に「結果」だけが存在する。よって、アブダクション推論によって「結果」から「原因」を推論できるようになるということは、すなわち、前と後、という時間的な概念を獲得するということなのではないか。そして修正可能な(訂正可能な)因果関係が都度生成される。

 要するに言語を習得していくプロセスは多分時間という概念を獲得していくプロセスと同時進行で行われるのではないか仮説。と思いついてしまった。

 失語症になると遠近感が失われるという話を昔聞いたことがあるが、多分時間の感覚もなくなってしまうのではなかろうか。時間はかように言語と密接に結びつき、そして多分それは意識の構造とも緊密に結びついているだろう。

 なんとなく目の前がぱっと明るくなったような気分になった。

 なるほどなあと思った。

 本書は最初の方は実はちょっと退屈だなあと思って就寝前に読んでいたら確実に眠くなりページ数が稼げなかったのだが、最後の方になって人間になぜ言語能力が備わったかについて、かように面白い議論が展開される。後半はもう一気読みだった。

 このことについてはまた色々と考察していきたい。