BearLog PART2

暇な中年の独り言です

1月21日 雨の日 読書と稽古で至福のひとときを過ごすが夕食はピザ

 朝目が醒めたら雨の音がしたので、ベッドから出る気がかなりうせた。ということで、いつもならば日曜日の朝はジムに行くことを日課にしているのだが、たまにはそういうのもいいかなと思い、お寝坊を決め込み(昨晩考えた通りになった笑)、今日は読書と稽古に費やすことを決める。決めるが早いか、さっそく書架から読みかけの東浩紀「訂正可能性の哲学」を取り出してきて寝っ転がって読み始める。寝転がって本を読むというのは自分にとってはほぼベストのポジションで、至福のひとときなのである。ここ最近老眼が進んでいたり、忙しかったりでなかなか本を読む時間を捻出できていないのだが、ぬくぬくとしたベッドと読書。最高じゃん(ハチワレ風に)。

 

 一頻り本「訂正可能性の哲学」を読んで買い置きの食パンに高級ツナ缶を乗せて朝食。妻と娘はまだ寝ている。コーヒーも淹れちゃう。なんと豪華な朝食。それから、昨日吉祥寺のブックファーストのレジ横に置いてあって気になった本があったので久しぶりにKindleで購入。自分としてはめったにこういう本は買わないのだが、なんだか思わず買ってしまい、読み始めるが、あっという間に読了。

 言っては何だが、割と通り一遍のことを脳科学のようなものを用いて説明してくれている。特にびっくりすることはないし、この手の自己啓発本というかマニュアル的な本の構造を取りつつ、根拠あるよオーラ出るから一定数の人には響くんだろうし、自分もこういう習慣を身につければいい人になれるんだろうなあと思ったりもするが、まあ話半分ということで。とはいうものの、自分が心がけていることもいくつかが他者によって言語化されるとそれはそれで自己反復的に強化されるからいいのかなあと思ったり。

 しかし東浩紀中野信子、同時に読んでいる俺って何?と思う。しかも多田先生の本を何冊か斜め読みしていたら、中村天風が気になってきて一応読んでおかないとなあと思ってみたり。

 そう言えば「訂正可能性の哲学」はちょうどルソーのところの考察を読み終わったところなのだが、ドストエフスキーの「地下室の手記」の話が出てくる。どんなによい社会が成立したとしても、それを受け入れない人間が出てくる可能性が否定できない以上、そのような非合理で不完全な人間を前提に考えなければならないというところ、その通りだとも思いつつ、データで解決できることも相当数あるんだろうなあと思ってみたり。真実は極端ではなくどこかの間にオチているものなんだろうなんて思ったりする中で「運のいい人」を読むと人間の非合理性を何とか「常識的な社会」に押し込めようとするフーコー的な権力を感じてしまうのだが、それって穿ち過ぎなんだろうか? 自分は割と「地下室の手記」、好きである。

 

 自分は自己啓発本が嫌いであまり読まない。それはその自己啓発本が結局のところ既存の社会システムと何とか妥協していきなさいと説教しているに過ぎないと思っているからだ。その説教は著者が意識しているしていないにかかわらず、多かれ少なかれ裏には権力の匂いがしてしまうのだ。とはいうものの、今回はちょっとそこに足を踏み入れてみたが、現実においてはこの手の自己啓発的なことを自分もやっていたりするわけで、なんだかなあ笑

 そうこうするうちに夕方になり、ピザーラのピザで夕食。その後面をつけて「花月」の一人稽古、その後ヴァイオリン。引き続きプレイエル、先生に注意されたところ、意識しながら練習。3番指の移動、ロングトーンが続く前の返しの弓の怨霊じゃなくて音量等。楽しい。これで寝る前にストレッチがわりに昨日習った合気道の一教や小手返の練習しておくか。

 なんだか満たされたような日曜日だが、母親が3月には引越すので、その工程を考えないとなあと思ったり。それは来週考えるか。

 ということで、今日はこれからリラックスタイムに入ろうと考えている。

 それでは皆様、来週までしばしのお別れ。